ぼくは基本的にはBased on a true storyと先にうたう作品に対してなんとなく距離をとってしまう。Inspired by a true storyはまだましだけど、やっぱり嫌な感じは残ってしまって、観ていて粗だと思う部分を事実に基づいているから仕方がないと言っているように、僕には聞こえてしまうのだ。
もちろんこの事実に基づいているという前置きがあっても面白い作品はあるし、まさにこの映画がそうだった。親は知っていたがぼくはこのテニスの試合があったことを知らなかった。トレーラーをみておもしろそうだと思い、スティーブカレルとエマストーンが好きだから見ることに決めて、チケットを買い、観る直前になって少しググってようやくこの出来事を知った。
映画は最初から最後までエマストーンの魅力を原動力に走っていった感じがあるようだった。今の時代のジムキャリーであるスティーブカレルはコメディ映画やファミリー映画にでるときのような受け狙いのオーバーリアクションを抑えて、利己的で調子のいい古い男に徹していたし、アンドレア・ライズボローが演じる恋人の、誰もがついうっかり手を出してしまうような艶妖さも映画に素晴らしいスパイスを与えていたが、なりよりも僕が目を離せなかったのはエマストーンだった。
ぼくはずっとエマストーンは未熟なりにも自分の世界で完結していてぎこちなく不安定ながらも自立指向の女性を演じさせたら右に出るものはいないと思っている。たとえばアメージングスパイダーマンでの彼女は少し最初から出来すぎていてはまっていなかった。自立しきっているものに対して、僕はあまり魅力を感じない。これはあくまで個人的な感性だろうが、たとえば僕はそのような人に恋心を抱くことはないように思う。自立できている人には僕が必要になる要素がありそうもないと思ってしまうからかもしれない。
寺山修司の「美しい女とは美しくなろうとする女のことである」的な有名な詩の一節は全くの事実であるが、今の時代では決して女性に限定されるべきものでなく、人すべてにあてはまるものだ。ぼくは美しくなろうとする人に惚れる。対象を女性に絞るとしたら、ぼくはもう一つ、このエマストーンのもっている「ぎこちなくも自立志向」である要素も求めてしまうかもしれない。男女は平等であるべきだ。
エマストーンの演じる女性もただ平等を求めるためだけに、男対女の試合へ挑む。負ければ大いなる恥がつきまとい、次にこのような機会が訪れるまで状況が変わらないままになるかもしれないという恐れを抱え、その過程でいくつかの葛藤を背負い込んでしまってもなおなんとか冷静を装って挑もうとする彼女のぎこちなさはいじらしく魅力的だ。

関係ない話
日本のツイッターでは#metooのタグでのセクハラ暴露がなんだかこじれている。
ケビンスペイシーの同性に対してのセクハラもこの運動の初期にあった気がするが、日本ではなぜだか男性セクハラ被害者は発言をするなというような論調が幅を利かせているらしく、僕は混乱してしまった。たった一人で誰にも言えないままだった性的被害者に対して不特定多数の他者が同調して声を大きくしてやることで泣きねいりをさせないようにするのが本来の目的なのだと僕は思っていたが、一部のミサンドリストからするとそういうことではないらしい。
僕は男女どちらも好きだしどちらも嫌いだ。嫌いな部分はだいたいどちらも自らが生まれ持ってきた性質に胡坐をかいていることによる場合が多い。自分が持って生まれたもので他者を見下す行為はとても前時代的だと思う。すくなくとも僕は「どちらでもないもの」の味方でありたいと思っているから、両端のどちらかであるというだけで鼻高々な人々は、ほかに誇るものを得る機会を逃してきつづけた人なんだと思ってかわいそうに思ってしまう。
インターネット上の論争は世の中のあらゆる論争のなかでも最底辺なものが最も目立つ。最底辺なものは情報量が少ないのに強烈で情報弱者はすぐに中毒してしまうのだが、ネットで見かける女叩き男叩きはその最たる程度の低さで突き抜けた哀れさを感じさせられる。男はクソ、女はクソ、なにを言っているのだか、どちらもお粗末なものだ。クソな男がクソな女を嫌って、クソな女がクソな男を見下して、至極お似合いに見えるじゃないか。
すごく見ていてきつい映画だった。ぼくは映像のなかでのグロテスクなシーンがどうも苦手だ。役者の演技力や特殊効果に完全に騙されてしまっているのだからある意味理想的な視聴者なのかもしれないが、同じ監督のブラックスワンといい、痛々しいシーンでは耳も目も塞いでしまってみっともなくなってしまう。ブラックスワンは飛行機の中で見たのだが、靴を脱いでシートに三角座りをして耳も目も抑えて怖いシーンでひーひー言っていたぼくはおそらく周囲の人々に多大な迷惑をかけていたと思う。

この映画は輪をかけて気持ち悪い。はじめは他者が自分の空間で勝手にしているという嫌な感じがテーマなのかと思って、そういうじんわり嫌な感じのが好きな僕はうきうき見ていたのだが、死者がでてきて物語が宗教色をおびはじめてくるとあとは指数関数的に気持ち悪いシーンの連続だった。

詩人とその妻が住んでる家にファンを名乗る人々がやってきて勝手に騒動をおこし人が死ぬ。激高した妻を夫は抱き、その一夜で彼女は妊娠する。その妊娠を奇跡だと思った夫が書いた詩は傑作だったらしくどんどん人が彼を求めてやってくる。人々の波はとまらずかれらはわが物顔で妻の家で好き放題する。なぜなら詩人が「すべては分け与えられるためにある」と言うからだ。人々に占拠された屋敷の様相は不穏になっていく。異端排斥がはじまり女性の奴隷化が起こり警察が介入し内乱状態になり軍隊が出動し戦争状態になる。そこで家、子供という彼女の大切なものすべてを失い怒り狂った彼女はボイラーの燃料に火をつけて家ごと燃やす。焼け跡のなか全身重度のやけどをした妻を服すら汚れていない無傷の夫が解放し妻の心臓から宝石を取り出して、家は再生し、冒頭にもどる。

全世界?での公開がなくなったらしいから遠慮せずに書くが、産まれたばかりの自分の子供がついうたたねした隙に夫に取られて夫の信者に与えられて振り回されて首が折れて死んで、それを悲しんでその死を自らのものともしたい信者たちに身体をむしられて食べられていたシーンはいままで映画をみてきたなかでも屈指のトラウマシーンだった。
しかしあの映画をスクリーンで見られたのは幸運に思う。
セックス依存症の主人公は一流の企業で働いていて一等地のマンションの部屋を持っている。帰宅すると彼はバッハのゴルトベルグ変奏曲をかけ、テイクアウトのごはんを食べながらポルノを見て、コールガールを呼び、空いた時間にもオナニーをする。寡黙がちで顔がいい彼は視線だけで女性を誘惑できて、おしゃべりが上司が言葉を尽くして落とせない美女と橋の下でやったりできる。
彼はとても規則正しく性欲にまみれた生活を送っている。それは完全に安定していた。

しかしその生活のうち絶えず留守電を入れ続けてきていた自分の妹がやってきてから彼の生活はおかしくなりはじめる。主人公が性依存症であるのと裏腹に妹は恋愛依存症だった。束の間にできたような恋人に毎日会いたがり毎分連絡をとらなければ気が済まず、振られそうになったらこんなにも愛しているのにと泣き落としにかかり手首を切ろうとする。その妹は妻子持ちである主人公の上司と関係を持ちはじめ、露骨に脅かされ規則性を失っていく生活のなかのいら立ちから兄妹をむすぶ彼らがこの世にもつたった一つのつながりの大切さが見いだされてくる。

主人公の徹底した素人童貞ぷりは面白い。彼はまったくもって人との会話の必要性を認めていない。他者は自分の性的欲求を満たせるかどうかにしか見られておらず、しかもその他者を口説くのにも彼は目を用いるばかりだ。彼の目力だよりぷりは見ていて本当に笑ってしまう。自分のベストな目で相手をあれだけ長時間見つめればぼくであっても簡単に人を抱きまくれるのではないかと信じてしまいそうになった。そうやって目だけで人を口説ける男だから社内の女性に誘われてデートに行ってもろくに会話ができないし、ホテルへ連れていってもプロとする愛のないセックスでしか彼は勃起をいじできない。

映画のなかで誰にとっても最も印象的なのは冒頭に出てくる三十後半とおぼしき人妻だろう。主人公は地下鉄内で彼女を目つきだけで発情させる。照れながらも興奮を抑えれない自分に驚いた彼女はあわてて電車からおりた彼女を彼は追いかけるが彼女を見失ってしまう。その後なにがあったかはわからないが物語の終わりにもう一度地下鉄で出会う彼女は男を誘いたがっているようなけばい格好に変わっていて、かえって主人公を誘惑しようと見つめてきていた。本来なら喜んで束の間の放精の快楽に酔いしれるだろうがいろいろあった後の彼はなんとも乗り気じゃない顔をしているのだった。
しかし彼はきっと映画のあとその人妻を抱くだろう。セックスに対しての依存はそう簡単に抜けるものでない。この映画はただそれが恥ずべきことなのかもしれないと主人公がただ思い始めるだけだ。優先度が恥によって揺らいだ。ただそれだけだ。
ぼくはプロとしたことはない。ただ精神的に不安定になると出会い系で知り合った人と一夜限りの遊びを繰り返してしまうときがあるし、そういう時はかえってぼくとの長い関係を求めている相手とは勃起が持続しない。相手が好意を尽くして行ってくれる官能を誘うための素振りすべてが冗長に思えてしまって、冗長に思えてくるといろいろとほかのことを考えてしまう。はじめはこの年で勃起不全かと嘆いたが、むしろそれが自然なものなのだろうと納得している。
その状態のぼくはあきらかに自分の神経的快感にのみ集中していて相手も同じようなものを求めているという意識が完全に欠如していて、あなたも快楽がほしいならどうぞ頑張ってくださいといった意識だ。二人して一つの頂点を目指すのでなく、同地点から全く別々の山を登りあう違う行為だ、愛のあるセックスとないセックスとは。

主人公のマフラーの巻き方は暖かくなさそうだがとてもかわいくて見た次の日はついまねしてしまった。あとぼくは個人的にキャリーマリガンは好きじゃない。グレートギャツビーの(といっても2013年のグレートギャツビー自体がひどい映画だったが)彼女とデイジーブキャナンの像はあまりにあっていなかった。しかしこの映画において彼女の何本か支える糸の抜けたような顔や末広がりに垂れた乳房などは恋愛依存症の女性像にぴったりあったはまり役だったと思う。
共感性羞恥という言葉を最近よく聞くようになった。たとえば映画のなかで主人公やほかの登場人物が公に辱められるシーンで、そのひとに自らを無意識のうちに投影してしまい、その後すぐに辱められることがわかっているだけに、もう避けようもないところにいたたまれなくなってしまうことだ。僕自身そういうところがある。主人公がこうむる肉体的な痛みは見ていていっこうに平気なのに精神的恥辱は見ることが、たとえそれが物語の筋のうえでどうしても必要なものだとわかっていてもつらくなる。
物語のなかにモラルを超越した暴君が現れることがある。映画「ギャングオブニューヨーク」におけるダニエルデイルイスのような人物を見たとき、受動的で共感性の強い人間は自分がその場にいたらどのようにしてこのモラルを超越して自己利益のためや時に気分で他者に危害を加えうる人にどのようにすれば上手に気に入られるかと考える。その状況にかかわって起きうる最悪のシナリオをどのように自分なら回避できるかを考える。
このギドモーパッサンの名作のようなすばらしい短編には、えてして回避しようのないどうしようもなく自らの良心だけが痛む結末が控えている。
特殊な、常識だけでは打破できない状況に多人数が巻き込まれたとき、全員はそのうちの誰かがその常識を破ってそれを切り開いてくれるのを期待する。その期待は、いまだ満たされていない時間が延びればのびるほど自分が本来その範囲内にとどまっている気でいるはずの常識や良心の範疇を優に超えてほぼ強制的になってくる。しかし、ひとたびその状況が、打破するポテンシャルを持った人物による常識を破るほうほうによって打破されたとなるや、期待するだけの人々は我先に元の常識の世界へ立ち返って常識破りの行為の如何を遡及的に問いはじめる。
共感性羞恥は一見そのひとがとても心優しい人物であるから引き起こすいたいけでかわいそうな症状のようにとらえられるが、実のところその真逆だ。その状況に対して五感を閉鎖し無視を決め込んでひたすらだれかによる打破を期待する、あらゆる社会の状況にたいして帰属意識を持とうとしない人間が、逃げられない状況に苦しんで甘えているにすぎない。
ぼくらの世代は戦争はよくないからよくないのだと教えられてきたような世代だ。そこにはあまり理屈を込めて教わったような記憶がない。教育に政治が入り込むことは本当にうっとうしいこと極まりないが、日本人が戦争の加害者でありそれと同時に被害者でもあることと、それがあったという事実だけは歴史として無視するべきことではない。しかし大事なのはやはりそのどちらでもあったということだ。
相互補完的な感情論になってしまうかもしれないが、僕は死刑賛成と戦争なにかしら近いものを感じてしまう。ある一人の人間Aが自らの利益を優先して、その結果としてもう一人の人間Bが死ぬこと(例えば餓死すること)になるとする。Aはまたそれを知っていながら自らの欲求を満たした場合Aの罪はどれほど重いのか。またその死を回避しようとして倫理に悖る行為すらしたとしてBの罪もまたどれほど重いのか。
戦争は多くの場合そのように発生している。規模の問題なんじゃないかと思っている。
村上春樹の小説は日本のほかの小説とは明らかに違うし、その相違はのちのフォロワー的に見えるひとびととも違うようにみえる。それは他者との距離だ。物語において主人公やその人にとても近い人間いがいが自らのもつ小さな物語を話す。その人物がたとえ完全に他者であった場合多くの日本の小説は他者としての距離を保ったままその話を聞くが、村上春樹の場合は完全にはいりこむ。しかしその距離感は決して映画や漫画、アニメにあるような完全にその人の内部へ移行しての回想ではない。物語をはなすその人と物語をきく主人公の自分そのどちらにも同じ距離で接近して矛盾させることなく物語全体をその先へとすすめていく。そこに村上春樹の長編小説の比べようのない魅力がある。
これは一種の矛盾だ。しかし矛盾を矛盾とみとめないまま無理やりに創作をすすめることにこそ魅力が生まれる。ときに日本の小説は円滑なながれ、理詰めにおいての矛盾や破綻について極端にきにしすぎるところがある。もっとも最近は矛盾が抱える魅力を自分のものにしている作家も増えているけれど。