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自分の長時間の努力が全くの徒労だったことを知ったときほど自分が何のために存在しているのかとぐったりしてしまうことは他にないし、自分の虚栄を人に見透かされてしまったときほど自らの人生そのものを大きな徒労のように感じる瞬間も他にないだろう。こんな仕事つまらない徒労だと思いながらアルバイトをする学生はたくさんいるが、金が帰ってくるぶんだけ徒労よりは遠い。本当にあったのかは知らないが、ナチスが拷問としてひたすら土を掘らせてまた穴を埋めるのを繰り返させるというのがあるが、これももしそれに対価として金が支払われたならなんの徒労にもならない。しかし、これを捕虜にさせるとしたらそれを監督する人もなかなか大変そうに思える。ドイツ人への勝手な偏見になるが、生真面目なせいで離れたところで新聞でも読んで怠けてたらしばきにいくようなくつろぎはできなさそうだ。そういうことはアメリカ人のほうがやっているイメージが浮かびやすい。
しかし徒労が必ずしも無意味なことと思えない。子供のころは勉強よりも徒労のほうがはるかに魅力的に感じられる。部屋の電灯からぶら下がった紐の先を殴ってその跳ね返りを避け続けたり、自転車で校区を一周したり、トレーディングカードの架空の一枚を念入りに作ったり、消しカスからひたすら練り消しを作ったり、これらは確かに何一つ建設的ではないがひとりひとりの多様性を伸ばす最高の乱数のように思えるときがある。はっきりいってこんなブログは徒労でしかない。誰も見ていないしアクセスログがたまに伸びていると、まさに人に徒労を強いたようで申し訳なくなる。人が自分の思っていることをありのままに叫べる場所がありすぎるのも却って問題だ。ここは僕しか書き込めないしコメントもできないしおさわり厳禁でオナニーを見せつける昔ながらの風俗だ。マイナーな小説の題で検索するような暇人しかそもそもやってこない。僕のマスターベイションを見て映画デニッシュガールのリリーみたいに何かの参考にしてくれる人がいたら却って関心するくらいだ。日本だとツイッターみたいな終わりかけのSNSで公共の場でありながらありのままに叫べると思い込んで汁を飛ばしあっているから驚く。SNS疲れはこれからも増えていって、半匿名SNSがこれからの主流になっていくと思う。虚栄を垂れ流す人はいなくならないだろうけど。

日本にいてもオーストラリアにいても学校にあって僕はいつだっていじめを見てきたし自身いじめを受けた経験がある。いじめはなくなるものではないことを多くの人が察知していながらそれを仕方のないものと受け止めている。そしていじめは人が大人になればなくなるものでもない。大学の薬学部生だった女性が同じバイト先のギャルっぽい子を外見から知性が劣るだろうと明らかに見下す発言をしたのを聞いた。それはさも当たり前かのような口調だった。見下す側はいつだって見下すなりの理由がある相手が悪いと信じているから、いじめられるほうが悪いというような暴論が生まれる。よし自らいじめられる原因を生み出してしまう人間がいても、原因があるからといっていじめていいわけではない。一度見下し始めると、見下し続けるうち次第に見下していた原因が消失し、対象を「見下されるべきだから見下している」ようになる。いじめが発生しないのは嫌悪される対象がする側よりも上にある場合だけだ。それらは愚痴という形をとるようになるだけで、潜在しているものではあるのだが。ただ上にちょうどいい愚痴の対象がない場合、対等の集団のなかでほかも気に食わなく思っているだろうとされる対象をひとつ選んで下に置くことで、集団全体のガス抜きを図った結果であることを僕はしばしば見かけた。三国志において曹操が食料担当が盗み食いしていたことにして首をはねて飢えていた兵士の不満をそらさせたことはこの傾向を巧みに扱った例だろう。
大人でもする行為だから子供がしても多めにみるべきというような風潮が僕には理解できない。大人がしてよくて子供がしてはいけないことなどたくさんあるのになぜ犯罪だけは許されるのだろう。得てして子供の犯罪はだれも責任をとらない。酒だの煙草だの娯楽的なものばかり関わった大人が責任を取らされるのに。しかしよく考えてみればいじめに関しては大人も責任をとっていない。いじめが発覚した場合学校はそれを知らなかったことにしようとする。知らなければ済む話でもないと思うのだが。囚人同士が殺し合っても知らん顔する看守と同じように感じる。それが正しい物事の形だとは思えない。
いじめを筆頭に未成年の犯罪を防ぐ最良の方法は子供の犯罪に保護者が当事者のように罰せられるようになることかもしれないが、そんなことになれば人はますます子供を産みたがらず少子化は一段と加速するだろう。どうしたらいいか。最近流行りの父権主義的なやりかたがいいんじゃないだろうか。インフォームド・コンセントだ。先にいじめが引き起こすだろう結果を子供に教えればいい。いじめが発覚した場合、いじめの深度によってそれが周囲に知らされあなたは親、担任、学年主任、生徒指導主事、教頭からそれぞれうんざりするほど長く追求され内申点に著しい影響を受け、親はたとえ謝罪しようと村八分的扱いを受け、引っ越しを余儀なくされることもしばしばあり、またその引越し先でもまた噂が広まり肩の狭い思いをすることになりうるが多くの場合いじめの被害者以外はいじめがあったことを忘れており、いじめの被害者は逆に参加しないことも多いため同窓会は気分良く過ごせますでしょう、みたいな感じで。
アニメーション映画はずっとむかしの作品ではあるのだが、見たのは比較的最近のことで一年前のことだった。そのとき付き合っていた女性とふたりベッドに横になりながら見ていた。雷が落ちるほどに大きな雨が降っていた。彼女は覚えていないだろう。おそらくそのあとにセックスをしたことも。しかし、いったい誰がむしろそれを覚えていられるだろう? この女性よりもまえに付き合っていた女性と別れたときもそうだったが、恋というつながりの糸が切れると途端に相手の思い出が消えていく。顔を忘れ、肌の匂いを忘れ、どこへ行ったかさえきっかけがなければ思い出せなくなって、あれだけ愛したはずの彼女の裸体すらいままでの他の女たちすべてと重なってどれがどれだったか判然としなくなってくる。そうしたうえで最後に残る彼女にまつわるものは残像のような人格だけになってしまう。これほどの消失は他にないんじゃないだろうか。友人たちは何年と会わなくとも、顔も声もあらゆるものがそのままに保存されて次にあったときに瞬時に整合性を確かめつつ同期されるというのに、ぼくは一つ前の彼女と久々に再会したとき話す言葉を何一つ見つけられなかった。それは僕が知っていた人物と似た人格を持つ全くの誰かでしかなく、脛にうまれつきある大きな痣だけ毛の伸びが早く夕方にはもう産毛が伸びているのを同一人物の証拠として認められただけだった。
女性が社会的に進出することにおいて女性性および男性性の偏見が取り除かれる必要があることを誰しもが認めていながらもそれは容易に進まない。この「美女と野獣」が公開されるまえに、自らフェミニストであるというエマ・ワトソンが物語に自分の価値観に基づいて進言をしたと聞いて期待していたが、すこし男性の同性愛的(しかも娯楽的に脚色された)描写が追加されただけだった。そもそもベルはまったくもって先進的でもないし、親を大切にしているだけで、読書好きといっても詩や恋愛物語が好きなだけで、結局のところ理想の王子様と結婚して幸せになりたいという従来のプリンセス像から離れておらず、フローズンのほうが遥かによかった。僕は自分の元カノがこの作品を見て感動するのがわかる。消えかかった彼女の残像から察することができる。プリンセスもののディズニー映画に感動する女性がいるかぎり男女の平等など来ないのではないかと思ってしまう。特に今は長い過渡期にある。差別はまず差別とすら捉えられず常識のうちにあり上辺は平和だ。差別が訴えられ始めてもはじめは大麻合法化を訴える人々を見るように胡散臭く見るだけだ。問題意識のようなものが人々に周知され始めるとそこではじめて受容のまえの強い反発の時期に入るようになる。それから反発の網をかいくぐってすこしずつ解放されていくわけだが、そのうちの反発の時期がいまだ。
インターネット上では女だたき、男だたきで満ち満ちている。男は女を外見と打算だけで生きる頭の悪い生き物だと叩いて、女は男を性欲だけで生きている野獣だと叩く。
結婚すること、子供を設けることを人生の最終目標のように考えている人間が多すぎると僕は感じる。妊娠する機能妊娠させる機能があったとしてそれは選択でしかないという考えが、男女の平等が実現した未来では当たり前になっているのではないだろうか。しかし少なくともこの映画をレイトショーで一人で見て、気づけば一人で誕生日を迎えていた僕がこのように荒んでいるのはまったくもって哀れ極まりないことだ。

離婚と別居にはかなりの差がある。基本的に離婚はどちらかが負けていて、別居はどちらも負けているかの違いだ。別居がその状態に落ち着いて長年そのまま続くようなことが往々にして起こるのはどちらも負けているために、こだわる理由がお互いとは違うところに移ってしまっているからだ。ぼくの両親は7500キロも隔てあっていてこれぐらいの距離がちょうどいいと言うしスカイプをたまにすれば口喧嘩が絶えない。僕や妹が彼らのこだわりであることは想像に難くない。僕は自分自身の未来など全く予想もできないが結婚もしてみたいし離婚もしてみたいと思う。人生何事も経験であるしそのようになろうとしている事柄に対して僕はなにかしら演じたくなってしまう。状況如何で離婚が自分を劇的に映してくれるなら僕はそうしてしまうようなところがある。僕は数年続いた恋を最近終わらされたところだが、この恋の後半僕はずっと彼女を恨んでいたことをいまになって認められるようになった。恨んでいたから僕は彼女に尽くして彼女を抱いて愛の言葉を口にしていた。実のところぼくは自分の友人以外愛してなどいない。しかしその恨みを隠してなお彼女を生涯愛してやろうと考えていた。僕に似た美しい子供を産んで自分はずっと愛されていたと幸せに死なせてやってそのおめでたさを誰にも言わずに笑っておこうと思ったが残念ながら感づかれてしまった。それからもしばらく泣き落としにかかったがうまくいかなかった。僕とはもう結婚しない以上彼女は醜い子を産むだろうからどのみち僕は満足だ。美醜は永遠になくならない差別だ。多岐にわたる美の定義のうちに効率の良さが洗練と捉えられそれがデザインと呼ばれて産業に影響を与え続けるかぎりどうやっても人はこれを否定できない。痩せてる女性を美しいとするなと運動している人々がいるが彼らの運動は理想通りに結実する日はこないだろう。太っていることが非効率である以上、効率性の頂点である鍛えられた健康体を超えられない。
カフェを経営していたとき自らの子に依存しすぎた母親が子供のレベルにまで下がるのを見ることがしばしばあった。それはただ子供に対して幼稚語を使うとかそういうことではなく、依存しすぎているために依存対象が喜ぶものに自らも喜ぶようになるということだ。我が子が笑顔になるのを喜んでいるうちにその子が笑う対象が自分にとってもすばらしく感じるようになって、我が子が嫌うものを自らも嫌うようになる親はたくさんいた。このブログのトップはPCで見るとなかなか趣味の悪い画像が現れる。これは僕が十七歳のときに描いた絵を元にしているが、元々は任天堂のどうぶつの森シリーズに登場する「あやしいネコ」というのっぺらぼうの猫を見た印象だ。依存対象が変わると嗜好が容易に変わる人間は多々いる。中学のときにこのキャラクターに出会ったとき僕自身もその一人であることに気付かされた。それから「こだわりをもたなければ」という焦りに支配された数年間を過ごすことになったが、結果的に吉なのかはわからない。僕は少し人に嫌われやすくなった気がする。
ウディ・アレンの名作「アニー・ホール」の中に以下の台詞がある「A relationship, I think, is like a shark. You know? It has to constantly move forward or it dies. And I think what we got on our hands is a dead shark」
恒久的な人間関係などありえないと、多くの智者たちは知っていた。唐詩選のなかの「人生即別離」を知らなくたって、中島みゆきの歌さえ聞けば「別れはいつもついてくる幸せのうしろをついてくる」ことをすぐに了解できるだろう。
通過点のような出会いがある。一定の期間にのみやけに親しんだのちふっと会わなくなってそれっきりのような、そんな人間関係が人生のなかには時々あるものだ。そしてそれが最も意味を持つのは青春時代なんだろう。
よくできた青春小説は、「恥が後にいい思い出になる」という青春特有の性質に多分に依存していることが多いため、たとえそれが傑作だったとしても二度読むことが辛いときがある。けれどもこの作品にあっては違う。何度読み返して立ち返っても平気な気の抜けたユーモアに全体がくるまれているために全く年齢の気負いなく読める点においてこの作品はすばらしい。
青春は前述の性質だけでなく、同時に共感の欠如による攻撃性を持ってもいる。無知で無根拠ながら物事を知った顔で人を傷つける。物事を知っているなら上手な傷つき方も知っているはずだが、ただそのように見せかけているだけなので、信頼した人に見捨てられると答えもわからず混乱する。
ぼくはもう少しで青春という言葉でなにかを片付けられなくなる年齢になろうとしている。25になるわけだが、人は僕のこの言いをふざけたことと思うだろう。現代社会はなぜこうも早熟することを強いるのか。若い人間が余裕なく努力し続けなければ人生が大変なことになってしまうのだという社会全体の強迫観念が今後弱まることはないだろう。僕は身近な大切な人々が合理性や安定を理由に自己を矮小させるところを何度も見てきた。そのたびに悲しくなった。先のウディ・アレンの言葉にあるように死んだ魚を無理矢理に動かさせるような人間関係を求めるのがいまの合理主義的な人々のつながりだ。そこには当然無理があり、無理があるなら当然痛みが伴う。僕は文学バカだから、合理性とは対極にある。彼らから見て人生の無駄でしかないものにばかり価値を見出すから彼らに呆れられ捨てられるのは当然のことだ。だがどれだけ愛して信じていた人間に捨てられても僕は人生の無駄から眼をそむけられない。愛情はその対象の非効率性の許容から生まれるからだ。そうしたところで仕事に行ってしまった飼い主は帰ってこないのに扉を爪で掻きつづける犬を愛くるしく思えるのも同じだ。
しかし死んだ魚に無理やり電極を突き刺してぴくぴくと動かしているような現在の人間のつながり方はシンギュラリティの達成まで終わることはないのかもしれない。青春が終わる瞬間は人間関係に打算を見つける瞬間かもしれないが、もしそうだとしたら僕よりも若い世代の人間はもっと早急な青春の終わりを与えられることになるのだろう。
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