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離婚と別居にはかなりの差がある。基本的に離婚はどちらかが負けていて、別居はどちらも負けているかの違いだ。別居がその状態に落ち着いて長年そのまま続くようなことが往々にして起こるのはどちらも負けているために、こだわる理由がお互いとは違うところに移ってしまっているからだ。ぼくの両親は7500キロも隔てあっていてこれぐらいの距離がちょうどいいと言うしスカイプをたまにすれば口喧嘩が絶えない。僕や妹が彼らのこだわりであることは想像に難くない。僕は自分自身の未来など全く予想もできないが結婚もしてみたいし離婚もしてみたいと思う。人生何事も経験であるしそのようになろうとしている事柄に対して僕はなにかしら演じたくなってしまう。状況如何で離婚が自分を劇的に映してくれるなら僕はそうしてしまうようなところがある。僕は数年続いた恋を最近終わらされたところだが、この恋の後半僕はずっと彼女を恨んでいたことをいまになって認められるようになった。恨んでいたから僕は彼女に尽くして彼女を抱いて愛の言葉を口にしていた。実のところぼくは自分の友人以外愛してなどいない。しかしその恨みを隠してなお彼女を生涯愛してやろうと考えていた。僕に似た美しい子供を産んで自分はずっと愛されていたと幸せに死なせてやってそのおめでたさを誰にも言わずに笑っておこうと思ったが残念ながら感づかれてしまった。それからもしばらく泣き落としにかかったがうまくいかなかった。僕とはもう結婚しない以上彼女は醜い子を産むだろうからどのみち僕は満足だ。美醜は永遠になくならない差別だ。多岐にわたる美の定義のうちに効率の良さが洗練と捉えられそれがデザインと呼ばれて産業に影響を与え続けるかぎりどうやっても人はこれを否定できない。痩せてる女性を美しいとするなと運動している人々がいるが彼らの運動は理想通りに結実する日はこないだろう。太っていることが非効率である以上、効率性の頂点である鍛えられた健康体を超えられない。
カフェを経営していたとき自らの子に依存しすぎた母親が子供のレベルにまで下がるのを見ることがしばしばあった。それはただ子供に対して幼稚語を使うとかそういうことではなく、依存しすぎているために依存対象が喜ぶものに自らも喜ぶようになるということだ。我が子が笑顔になるのを喜んでいるうちにその子が笑う対象が自分にとってもすばらしく感じるようになって、我が子が嫌うものを自らも嫌うようになる親はたくさんいた。このブログのトップはPCで見るとなかなか趣味の悪い画像が現れる。これは僕が十七歳のときに描いた絵を元にしているが、元々は任天堂のどうぶつの森シリーズに登場する「あやしいネコ」というのっぺらぼうの猫を見た印象だ。依存対象が変わると嗜好が容易に変わる人間は多々いる。中学のときにこのキャラクターに出会ったとき僕自身もその一人であることに気付かされた。それから「こだわりをもたなければ」という焦りに支配された数年間を過ごすことになったが、結果的に吉なのかはわからない。僕は少し人に嫌われやすくなった気がする。
ウディ・アレンの名作「アニー・ホール」の中に以下の台詞がある「A relationship, I think, is like a shark. You know? It has to constantly move forward or it dies. And I think what we got on our hands is a dead shark」
恒久的な人間関係などありえないと、多くの智者たちは知っていた。唐詩選のなかの「人生即別離」を知らなくたって、中島みゆきの歌さえ聞けば「別れはいつもついてくる幸せのうしろをついてくる」ことをすぐに了解できるだろう。
通過点のような出会いがある。一定の期間にのみやけに親しんだのちふっと会わなくなってそれっきりのような、そんな人間関係が人生のなかには時々あるものだ。そしてそれが最も意味を持つのは青春時代なんだろう。
よくできた青春小説は、「恥が後にいい思い出になる」という青春特有の性質に多分に依存していることが多いため、たとえそれが傑作だったとしても二度読むことが辛いときがある。けれどもこの作品にあっては違う。何度読み返して立ち返っても平気な気の抜けたユーモアに全体がくるまれているために全く年齢の気負いなく読める点においてこの作品はすばらしい。
青春は前述の性質だけでなく、同時に共感の欠如による攻撃性を持ってもいる。無知で無根拠ながら物事を知った顔で人を傷つける。物事を知っているなら上手な傷つき方も知っているはずだが、ただそのように見せかけているだけなので、信頼した人に見捨てられると答えもわからず混乱する。
ぼくはもう少しで青春という言葉でなにかを片付けられなくなる年齢になろうとしている。25になるわけだが、人は僕のこの言いをふざけたことと思うだろう。現代社会はなぜこうも早熟することを強いるのか。若い人間が余裕なく努力し続けなければ人生が大変なことになってしまうのだという社会全体の強迫観念が今後弱まることはないだろう。僕は身近な大切な人々が合理性や安定を理由に自己を矮小させるところを何度も見てきた。そのたびに悲しくなった。先のウディ・アレンの言葉にあるように死んだ魚を無理矢理に動かさせるような人間関係を求めるのがいまの合理主義的な人々のつながりだ。そこには当然無理があり、無理があるなら当然痛みが伴う。僕は文学バカだから、合理性とは対極にある。彼らから見て人生の無駄でしかないものにばかり価値を見出すから彼らに呆れられ捨てられるのは当然のことだ。だがどれだけ愛して信じていた人間に捨てられても僕は人生の無駄から眼をそむけられない。愛情はその対象の非効率性の許容から生まれるからだ。そうしたところで仕事に行ってしまった飼い主は帰ってこないのに扉を爪で掻きつづける犬を愛くるしく思えるのも同じだ。
しかし死んだ魚に無理やり電極を突き刺してぴくぴくと動かしているような現在の人間のつながり方はシンギュラリティの達成まで終わることはないのかもしれない。青春が終わる瞬間は人間関係に打算を見つける瞬間かもしれないが、もしそうだとしたら僕よりも若い世代の人間はもっと早急な青春の終わりを与えられることになるのだろう。
世界一のアイドルは誰かと問われたら、ぼくはそれをイエス・キリストだと答えるだろう。そして彼が彼を愛する者によって滅多刺しにされることもない。なぜなら彼はすでに手の届かないところにいるからだ。
手の届かない存在、アイドルをアイドルたらしめている理由はそれだけだといっても言い過ぎにはならないだろう。僕らが見上げて頭を垂れるべきものこそが偶像のありかただろう。
会いにいけるアイドルだとか地下アイドルだとかそういったものはそもそも矛盾をはらんでいる。与える側と受け取る側の抱いている理想と実質には互いに大きな乖離がある。目前にある等身大のものを見て人は眺めるだけではそうそういられない、その存在を自らのなかで大きくさせればさせるほど、偶像であったはずの存在が、安い照明に照らされて汗をかき全くの生理性を見せてくると、与えるだけの崇拝ではなくなって、肉体的(現実的)対価を求めることが自然に思えてくる。
遠藤周作の「沈黙」のなかに出てくる最弱のキリスト教徒「キチジロー」は生きるためになら踏み絵でもキリスト像に唾を吐きかけることすらも出来てしまうが、その罪を宣教師(パードレ)に懺悔させてくれと何度も何度も神を裏切ってなおすがりつづける。
キチジローが求めたのは宣教師による免罪であり、つまり彼が求めた救済はより身近な存在であり、物語が進むにつれ彼がどれほど神以上に宣教師自身を求めたかがわかる。人は弱ければ最も手近な存在を求め依存しその愛情を強めていく。しかしその接近は同時に偶像があられもなく実体であることをじわじわと知らしめ、その落胆こそが、一対の不完全な肉体と精神をもつ人間同士を結びつける愛情となる。しかし、それをさせないように落胆をぎりぎりの度合いで回避しようとしているのがいまのアイドルビジネスだ。多大な危険性をそもそもはらんでいる。ギャンブルにおいて金が尽きて絶望するぎりぎりでわずかに勝つことをくりかえすうちに人がどうなるかは自明だ。
アイデンティティの確保は時代を経るごとに難しくなっていく。それに従って一角の人物を夢見る人々が増えることを何事も止められない。たとえかわいそうな女性が滅多刺しにされても、脚光を浴びる夢をみて最も偶像的でない場所から偶像的存在になろうとする人は減らないだろう。情報に満ちて本気を出せばだいたいのことには手がとどく時代に手の届かない存在になろうとすることは、太陽を目指すイカロスぐらい無謀じゃないだろうか。
はじめてサルトルの嘔吐を読んだとき、よくわからなかった。すべての物がまさにまぎれもなく物であることになぜそこまでの吐き気を感じられるのか、ただ実存主義という言葉のかっこいい響きだけでこの本を手に取った僕はその思想を1%も理解していなかったと思う。今できているのかもまた怪しいが、少なくとも短編集はその感覚を知らせてくれる。ともかく実存主義者からすればそうでない人間はあまりに自分の人生を仰々しく考えすぎる。多くの場合人は自らを幸せになるべきものと仮定する。しかしその仮定の通りに現実がまったくそぐわないため、彼らはいま世界に在ることに不満を抱く。
人は進んで他有化されようとしているのではないかと思う瞬間がある。たとえば東京の一部上場企業などに就職して華々しくも多忙に東京を生きる自らに思いを馳せる田舎の人間は明らかに自分がどのように他人から、いや他人というよりももっと茫漠とした、「世間」に近いカメラの眼から映る姿がどれほど自らの理想にしっくりとしているかに固執しているように僕には見えてならない。その理想のとおりに映ること、それはまさに60億の有象無象のなかで自分が社会的にこの世に意義をもって存在しているのだという社会的保証を与えられることだからなのかもしれない。また同時に自分たちを現在進行系の存在だと思わせてくれる最大の要素、衣食住や性的なものに対する欲求が、自分たちをあまりに死というそれら欲求の不在に思い及ばないということもあるのだろう。だがそれらすべてを仮に失ったとき、職を失い病を患い金が底をつき人々が去っていったときそれでもなお自分たちに残るこの世界に確固たるものはなにかと考えた時、それは果たして苦しんでいる今の自分だ。
華々しい生活を夢見るぼくらは惨めな生活をときに死そのものと同等かのように話の俎上にのせる時がある。見るほども価値がなくなること、他有化されなくなること、それを生きながらの死と見るなら、僕はそこにこそ人の存在の自由があると思う。まさに存在することの不快感こそが絶え間なく存在し続けること自体の証明であり許可証だろう
小説は世界の定義であるかそれとも個人の追求か、幼稚なぼくにはわからないがともかく一つの方向性を持った没我であることは明白だ。その圧倒的な没我はその作品によって誰が傷つくとか不利になるだとかそういった瑣事にとらわれない。
どんな人間であってもその人生のあいだに小説にもなりうる「普遍的で印象的な出来事」に巻き込まれることがあるものだ。また世の中には小説が読めない人間がいる。最も近いのだと僕のかつての恋人だが、その人はオーストラリア育ちで英語に堪能で医学的な論文でもすらすらと読めるのにピュリッツァー受賞作のような読みやすいものでも読み進めるのが苦痛だと言うし、彼女が面白いといって渡してくれた百田尚樹の短編集は小説でなく脚本と呼ぶべき稚拙なものだった。こういった小説を読めない人間は自分の人生の中の芸術的な瞬間にことごとく目をつむるかそむけてきたために小説の中の描写に必要性がないなどと思ってしまうからだ。小説は時間の無駄というありがちな台詞はこの、自分の人生の中の芸術的瞬間への無自覚的無視に陥っている心の貧しい人が吐くのだろう。
人生における芸術の重要性を理解できる人とできない人と元々両極端ではあったが、ビジネスマンの哲学を書いた本ばかりが売れるようになった現在はもっとその差を開きつつあるように感じる。
見栄を張ること、それがすべての人間の存在意義のように思われていないか。SNSで写真をあげる対象は明らかに見栄が存在している。人が見栄を張るとき、常に誰かの財布がどこかで潤っている。それを悪いとは言わない。経済活動のほとんどは生まれるべくして生まれたものだろう。ただ見栄張りにとってその見栄の範囲内に多分に芸術も入ってしまっていることが悲しい。これから世界はどんどん承認欲求が満たされない方へと進んでいくだろうに、見栄の価値も落ちていくのに。
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