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アニメーション映画はずっとむかしの作品ではあるのだが、見たのは比較的最近のことで一年前のことだった。そのとき付き合っていた女性とふたりベッドに横になりながら見ていた。雷が落ちるほどに大きな雨が降っていた。彼女は覚えていないだろう。おそらくそのあとにセックスをしたことも。しかし、いったい誰がむしろそれを覚えていられるだろう? この女性よりもまえに付き合っていた女性と別れたときもそうだったが、恋というつながりの糸が切れると途端に相手の思い出が消えていく。顔を忘れ、肌の匂いを忘れ、どこへ行ったかさえきっかけがなければ思い出せなくなって、あれだけ愛したはずの彼女の裸体すらいままでの他の女たちすべてと重なってどれがどれだったか判然としなくなってくる。そうしたうえで最後に残る彼女にまつわるものは残像のような人格だけになってしまう。これほどの消失は他にないんじゃないだろうか。友人たちは何年と会わなくとも、顔も声もあらゆるものがそのままに保存されて次にあったときに瞬時に整合性を確かめつつ同期されるというのに、ぼくは一つ前の彼女と久々に再会したとき話す言葉を何一つ見つけられなかった。それは僕が知っていた人物と似た人格を持つ全くの誰かでしかなく、脛にうまれつきある大きな痣だけ毛の伸びが早く夕方にはもう産毛が伸びているのを同一人物の証拠として認められただけだった。
女性が社会的に進出することにおいて女性性および男性性の偏見が取り除かれる必要があることを誰しもが認めていながらもそれは容易に進まない。この「美女と野獣」が公開されるまえに、自らフェミニストであるというエマ・ワトソンが物語に自分の価値観に基づいて進言をしたと聞いて期待していたが、すこし男性の同性愛的(しかも娯楽的に脚色された)描写が追加されただけだった。そもそもベルはまったくもって先進的でもないし、親を大切にしているだけで、読書好きといっても詩や恋愛物語が好きなだけで、結局のところ理想の王子様と結婚して幸せになりたいという従来のプリンセス像から離れておらず、フローズンのほうが遥かによかった。僕は自分の元カノがこの作品を見て感動するのがわかる。消えかかった彼女の残像から察することができる。プリンセスもののディズニー映画に感動する女性がいるかぎり男女の平等など来ないのではないかと思ってしまう。特に今は長い過渡期にある。差別はまず差別とすら捉えられず常識のうちにあり上辺は平和だ。差別が訴えられ始めてもはじめは大麻合法化を訴える人々を見るように胡散臭く見るだけだ。問題意識のようなものが人々に周知され始めるとそこではじめて受容のまえの強い反発の時期に入るようになる。それから反発の網をかいくぐってすこしずつ解放されていくわけだが、そのうちの反発の時期がいまだ。
インターネット上では女だたき、男だたきで満ち満ちている。男は女を外見と打算だけで生きる頭の悪い生き物だと叩いて、女は男を性欲だけで生きている野獣だと叩く。
結婚すること、子供を設けることを人生の最終目標のように考えている人間が多すぎると僕は感じる。妊娠する機能妊娠させる機能があったとしてそれは選択でしかないという考えが、男女の平等が実現した未来では当たり前になっているのではないだろうか。しかし少なくともこの映画をレイトショーで一人で見て、気づけば一人で誕生日を迎えていた僕がこのように荒んでいるのはまったくもって哀れ極まりないことだ。
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