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世界一のアイドルは誰かと問われたら、ぼくはそれをイエス・キリストだと答えるだろう。そして彼が彼を愛する者によって滅多刺しにされることもない。なぜなら彼はすでに手の届かないところにいるからだ。
手の届かない存在、アイドルをアイドルたらしめている理由はそれだけだといっても言い過ぎにはならないだろう。僕らが見上げて頭を垂れるべきものこそが偶像のありかただろう。
会いにいけるアイドルだとか地下アイドルだとかそういったものはそもそも矛盾をはらんでいる。与える側と受け取る側の抱いている理想と実質には互いに大きな乖離がある。目前にある等身大のものを見て人は眺めるだけではそうそういられない、その存在を自らのなかで大きくさせればさせるほど、偶像であったはずの存在が、安い照明に照らされて汗をかき全くの生理性を見せてくると、与えるだけの崇拝ではなくなって、肉体的(現実的)対価を求めることが自然に思えてくる。
遠藤周作の「沈黙」のなかに出てくる最弱のキリスト教徒「キチジロー」は生きるためになら踏み絵でもキリスト像に唾を吐きかけることすらも出来てしまうが、その罪を宣教師(パードレ)に懺悔させてくれと何度も何度も神を裏切ってなおすがりつづける。
キチジローが求めたのは宣教師による免罪であり、つまり彼が求めた救済はより身近な存在であり、物語が進むにつれ彼がどれほど神以上に宣教師自身を求めたかがわかる。人は弱ければ最も手近な存在を求め依存しその愛情を強めていく。しかしその接近は同時に偶像があられもなく実体であることをじわじわと知らしめ、その落胆こそが、一対の不完全な肉体と精神をもつ人間同士を結びつける愛情となる。しかし、それをさせないように落胆をぎりぎりの度合いで回避しようとしているのがいまのアイドルビジネスだ。多大な危険性をそもそもはらんでいる。ギャンブルにおいて金が尽きて絶望するぎりぎりでわずかに勝つことをくりかえすうちに人がどうなるかは自明だ。
アイデンティティの確保は時代を経るごとに難しくなっていく。それに従って一角の人物を夢見る人々が増えることを何事も止められない。たとえかわいそうな女性が滅多刺しにされても、脚光を浴びる夢をみて最も偶像的でない場所から偶像的存在になろうとする人は減らないだろう。情報に満ちて本気を出せばだいたいのことには手がとどく時代に手の届かない存在になろうとすることは、太陽を目指すイカロスぐらい無謀じゃないだろうか。
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