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はじめてサルトルの嘔吐を読んだとき、よくわからなかった。すべての物がまさにまぎれもなく物であることになぜそこまでの吐き気を感じられるのか、ただ実存主義という言葉のかっこいい響きだけでこの本を手に取った僕はその思想を1%も理解していなかったと思う。今できているのかもまた怪しいが、少なくとも短編集はその感覚を知らせてくれる。ともかく実存主義者からすればそうでない人間はあまりに自分の人生を仰々しく考えすぎる。多くの場合人は自らを幸せになるべきものと仮定する。しかしその仮定の通りに現実がまったくそぐわないため、彼らはいま世界に在ることに不満を抱く。
人は進んで他有化されようとしているのではないかと思う瞬間がある。たとえば東京の一部上場企業などに就職して華々しくも多忙に東京を生きる自らに思いを馳せる田舎の人間は明らかに自分がどのように他人から、いや他人というよりももっと茫漠とした、「世間」に近いカメラの眼から映る姿がどれほど自らの理想にしっくりとしているかに固執しているように僕には見えてならない。その理想のとおりに映ること、それはまさに60億の有象無象のなかで自分が社会的にこの世に意義をもって存在しているのだという社会的保証を与えられることだからなのかもしれない。また同時に自分たちを現在進行系の存在だと思わせてくれる最大の要素、衣食住や性的なものに対する欲求が、自分たちをあまりに死というそれら欲求の不在に思い及ばないということもあるのだろう。だがそれらすべてを仮に失ったとき、職を失い病を患い金が底をつき人々が去っていったときそれでもなお自分たちに残るこの世界に確固たるものはなにかと考えた時、それは果たして苦しんでいる今の自分だ。
華々しい生活を夢見るぼくらは惨めな生活をときに死そのものと同等かのように話の俎上にのせる時がある。見るほども価値がなくなること、他有化されなくなること、それを生きながらの死と見るなら、僕はそこにこそ人の存在の自由があると思う。まさに存在することの不快感こそが絶え間なく存在し続けること自体の証明であり許可証だろう
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