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小説は世界の定義であるかそれとも個人の追求か、幼稚なぼくにはわからないがともかく一つの方向性を持った没我であることは明白だ。その圧倒的な没我はその作品によって誰が傷つくとか不利になるだとかそういった瑣事にとらわれない。
どんな人間であってもその人生のあいだに小説にもなりうる「普遍的で印象的な出来事」に巻き込まれることがあるものだ。また世の中には小説が読めない人間がいる。最も近いのだと僕のかつての恋人だが、その人はオーストラリア育ちで英語に堪能で医学的な論文でもすらすらと読めるのにピュリッツァー受賞作のような読みやすいものでも読み進めるのが苦痛だと言うし、彼女が面白いといって渡してくれた百田尚樹の短編集は小説でなく脚本と呼ぶべき稚拙なものだった。こういった小説を読めない人間は自分の人生の中の芸術的な瞬間にことごとく目をつむるかそむけてきたために小説の中の描写に必要性がないなどと思ってしまうからだ。小説は時間の無駄というありがちな台詞はこの、自分の人生の中の芸術的瞬間への無自覚的無視に陥っている心の貧しい人が吐くのだろう。
人生における芸術の重要性を理解できる人とできない人と元々両極端ではあったが、ビジネスマンの哲学を書いた本ばかりが売れるようになった現在はもっとその差を開きつつあるように感じる。
見栄を張ること、それがすべての人間の存在意義のように思われていないか。SNSで写真をあげる対象は明らかに見栄が存在している。人が見栄を張るとき、常に誰かの財布がどこかで潤っている。それを悪いとは言わない。経済活動のほとんどは生まれるべくして生まれたものだろう。ただ見栄張りにとってその見栄の範囲内に多分に芸術も入ってしまっていることが悲しい。これから世界はどんどん承認欲求が満たされない方へと進んでいくだろうに、見栄の価値も落ちていくのに。
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