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誰しもが持つ偏見のなかでも一見本人は偏見と気づいていないものがある。それはいつも「心温まる物語」という言葉の連想の周囲に漂っている。しかしたとえば見た目の怖い人間が優しい行いをして心が温まってもなお、僕らが無意識に吹きかけた偏見の粉は落ちきっておらず、心温まっている僕らと同じようにその人もまた生活上の悩みがあり年をとることやそれにつれて失うもの、しだいに現実味を帯び始めてくる死を思っていることにまで思いやることができない。そもそも僕らは他者が彼らにまつわる不幸の種を持っていないものと仮定して生活している。そうでなければいざかわいそうな人を見つけた時に助けられないからだ。善きソマリア人の法がわかりやすいのかもしれない。追い剥ぎにやられて半死の人間が倒れているのを本来徳が高いはずの祭司などが見逃し、嫌われ者のソマリア人が助けたという話だ。これは決して祭司が実は悪人でソマリア人が優しいわけではない。日々他人の不幸を見慣れて誰にでも不幸があることを知っていると却って目の端の不幸を見落としがちになる。
オリーヴキタリッジには愛想がない。彼女は心温まる安易で軽やかな憐憫を嫌っている。ひとつのあきらめを持っていながら。彼女の愛は基本的に報われない、世の中に愛情が報われきることのほうがあるいは少ないのかもしれないが、夫は脳溢血を起こして植物状態になり息子は一人で生きようとするし、助けようとした拒食症の女性はそのまま死ぬ。そのことに動揺し、怒り、そして悲しむが彼女はそれを誰かと共有しようとはしない。一人でそれを抱えて耐えながら次の傷に備える。その最終的な傷である死においてもまたそうだ。他の老人が死を恐れ、早く死にたいと冗談を言い合うのは死について考えてしまう時間を先延ばししかけているにすぎない。それすらもオリーヴは拒否する。また同時に人生の多くの時間をそうして一人で処理して生きてきたのち辛くなって誰かの同情を急に求めたくなってもてひどいしっぺ返しを食らうものだと。
彼女の行動基準は世のいい話が好きな人間からは外れるだろう、そんな偏屈は自然でないと。しかしそもそも人間による行為は一切自然ではない。自然には目的がなく、人間の企みはすべて目的によるからだ。動物を保護することも駆除することも等しく不自然な行為だから、他方のみを善と言い切ることはできない。熊のぬいぐるみをつくってかわいがることも、農作物を守るために熊を駆除することも、利益指向の営為にほかならない。動物も人間も盗みを行う悪人であることは変わらない。熊がどんぐりを食べ、鮭を捕まえることは、人がその熊を殺すことと同じように盗みを働いているといえる。エントロピーが絶えず増大し続ける世界においてエネルギーを保とうとする行為自体が、おしなべて合理的ではない以上、それを奪い合うことそれ自体が醜くなることは必然でありまた善悪の問題でもなければ倫理の範疇でもない。善悪も倫理も自らの目的のために他人の目的を妨げる度合についての基準点の置き方であり自然についての議論はもっと合目的的に行うべきものだろう。幸せなハッピーエンドしか求められない人は一度この本を見てみるべきだろう。
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