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僕の中での羽田圭介のイメージは余裕を拝したタイプの作家だ。舞台がある程度出来上がると最短距離で問題へとぶつかりに行って、最善手で乗り越えていこうとしている雰囲気を読んでいると感じる。以前たまたま情熱大陸で彼のことを取り上げていた時に、長編に取り掛かるのだといっていたが出版社にて長過ぎるとのことで削らされていた。そのことが念頭にあったためかもしれないが、この小説は確かに羽田圭介らしい雰囲気を全体に持ってはいるが、どうも駆け足という気がしてならなかった。基本的に主人公が章ごとに変わる形になっているため、そういう小説は必然的にキャラクターの肉付け、区別化のためにそれ相応にページが用意されているものだが、それは連載第一回だけだった。小説自体が日本に蔓延るポピュリズムを扱っているだけに、もっと長くあってほしかったと思う。当たり前のことだが、短編には短編の書き方があり、中編には中編の書き方があり、長編には長編の書き方がある。スクラップ・アンド・ビルドは優れた中編だが、その中編と同じ描き方で長編となるべきこの作品が描かれたことが残念でならない。すくなくとも僕が思うに小説には二つの普遍的価値を決定する要素がある。そのうちのひとつが僕の言うところの余裕にかかわるものだ。物語に積極的な関わりを持たずともそれだけで人を引きつける部分だ。そしてもう一つがこの小説を満たしきっている要素、時宜に適っていることだ。その試みがまさにこの時勢をその手法によって明らかにされた時に感じる納得する快だ。これまた勝手な断定だが、短編にあってはこの二つの要素のどちらか一方でよくて、中編になるとどちらか一方だけでは苦しくなるためもう一つの要素も少しは必要になる。そして長編にはその両方が必要だ。
現在の、様々な分野でのマジョリティの潮流、それこそがゾンビを生み出すウイルスたるコンテクストなわけだが、その潮流の源となっている大家が蘇ることがその巧みな伏線となっている。名コピーライターや文豪が蘇ってしまうことなどだ。これを読んで思い出したのは高橋源一郎による「日本文学盛衰史」のなかの文豪が現代に蘇ったために現在の小説家が何も書けなくなってしまう章だ。この部分こそ編集者に小説家が何人も登場する小説のなかで作者の余裕が最も魅せられるだろう部分だった。それだけに僕は読み終えたときもう少しだけ文量が欲しかったというのが最初に抱いた感想だった。しかし小説が果たして誰に対して描かれるものかと思い直したとき、たとえ献辞などがあったとしてもそれは書いた小説家自身のためにのみ存在する。読者の存在は極めて重要だがそれでもなお副次的で、彼自身ほどではない。そして情熱大陸で見たこの作家の生活、三食同じものを食して毎日ダンベルや自転車で運動し家に無駄なものは置かない彼こそこの適意のみで長編を書く人間なのだと思わされ、かえってこの三食違うものを食べるどころか朝食すら2日同じものが続くのが嫌で運動は三日にあげず続かない、自転車が嫌いで(自転車はそれ自体が完成した美しいもので人が乗るべきでない)、部屋には必要とも不要とも決めきれないもので溢れている僕が余裕を求めようとそれは勝手なわがままで、どこかの俗僧よろしく大馬鹿だから死ぬべきなのだ。
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