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「彼らはマリアが何か書いているとわかると、ガンバッテ下さいと言うのである。マリアはがんばらないでぐにゃぐにゃしているのでなくては人生のことも、小説も出来ないのだが、マリアを見てそういう雰囲気をわかるようなかれらではないのだ」
努力から逃げるのは僕の信条でもある。根無しの浮草と小さい頃から言われているがそれで構わない。最近の電通の過労死もそうだが、しなくてもいい努力で死ぬ人を見るとむなしくなる。日本最大の会社だとか、それを誇るのはいいが、誇るために死んではなんにもならないじゃないか。どれだけ栄達を極めていようと人の集合体はいつか瓦解する。企業も国も明日果たしてあるか定かでないものだ。集団はいつだってばらばらになっては再集合を繰り返すぐにゃぐにゃした性格のものだから、そんなもののために固くなってしまうのはむなしいことだ。
ストア派でローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスはストイックの語源になったとおりとにかく自分を厳しく律した人間だが、彼の言葉に「自らの指導理性(ヘーゲモニコン)に従え」とある。これは自らの内部から自然に湧き立つ生きるべき理由のことだ。自分が生まれる前に永遠の無があり、わずかな生ののち、また永遠の無へと還る。その宇宙を貫いている真理のなかで、自分がなにをしなければならないかだ。そこに企業はないだろう。
ぼくの家でぼくと同じようにだらだらと過ごせば彼女は死なずに済んだんじゃないかと思う。だらだらと過ごすというのはだらだらと過ごすことを悪く思う人によるそしりでしかない。これは自らを愛するということだ。自らの内部にある性質を知って愛するための時間だ。これがなければ人は自らを立たせる方法を外部に求めるようになる。そうして外部は常に集合体で出来ている以上、その集合体に適した性質に寄せられてしまうのだ。
しかし死んでしまった人にこうすればよかったのにという言葉は通じない。とにかくこういう気分の悪くなることが減ってほしいだけだ。企業なんてだめなスパルタでしかない。役員だけが市民権をもち、残りの従業員はおしなべてヘイロタイでしかない。しかしこのポリスから君はいつでも出ることができる。そして野にあれば自らが己の心体の市民だ。
彼女のツイートが公開されて話題になった。それを見て彼女は性悪だったという人間も出てきた。しかし僕はそうだと思わない。よしんば性悪なんだったとしても、それが彼女の自殺とは関係しない。彼女は都会に多くいる華美から離れられなくなった人々の一人にすぎない。僕の中で最も関心をひかされたツイートはジャン・ジョルジュのエッグキャビアを食べたいというものだった。
これこそ彼女の幸せの端的な表れなんだろう。これがいくら高価だろうと彼女を批評する人間は間違っている。芋粥をありがたがる心に分不相応という言葉は通用しないように。彼女がひとえに間違っていたのは、彼女の幸せがどこから来るのかを知ることじゃないか。幸せは他人からもたらされるものでなく、自分の感情から湧くものでもなく、自らの行動によってもたらされるものだ。キャビアエッグを食べたいだけ食べられるほどの給料をくれる電通が幸福をもたらすものではない。企業が人に幸せを与えられた時代など半世紀も前に終わった。生命をおびやかすほどに働いた自分自身だけが、自分自身にエッグキャビアを食べさせられる。
人を死ぬほど残業させるような経営しかできない企業はそのうちに衰退する。人の集合体が永遠であることはない。ある集合体に属するという名誉は一過性のものでしかない。そのようなところに幸福の基準を置いては絶対にいけない。見栄は容易に人を死に追いやるし、また見栄はたやすく献身のふりをできるから質が悪い。「がんばって」という言葉は最も口にしやすい応援だが、この言葉も人の生命に関わる点までいくと献身を強いて、より追い詰める言葉になる。がんばるという行為はよく考えよく生きるというモットーがあってこそ成り立つ気力でしかない。そしてよく生きるとはどういうことかというと自らの自然に従うことだ。死ぬほど働くひとだけががんばっている人ではない。
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