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夏の花を読んだとき、とても詩情にあふれた美しい文章を書く作家だと思って、調べてみると実際に詩人としてまず始まったことを知って合点がいった。最初に詩人を目指してから作家になった人と最初から作家を目指した人では文章が大きく違う。残酷さなどの心に迫るものを描くとき詩人ははっとするほど美しい色彩のなかにのっぴきならないものをくるむが、小説家は写実的に最短距離で根源をつかもうとするような描写の違いを僕は感じる。
悲痛な歌だ。悲劇の生傷を治すため乾かそうと人々はその出来事を歴史化しようとする。おびただしいほどの個人の悲劇を大きな国家あるいは人類の悲劇という解釈にくるみひとつのものとすることで共感のなかで傷を和らげようとする。群でいることのやすらぎによって癒そうとする。しかしこの強い作家はそれを拒否する。視野をむやみに広げずあくまで個で、一つひとつの個が何百もの失われた個を抱えていることを忘れることなく歌い上げようとする。
「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」
「生の深みに、……僕は死の重みを背負いながら生の深みに……。死者よ、死者よ、僕をこの生の深みに沈め導いて行ってくれるのは、おんみたちの嘆きのせいだ。」
これらの言葉は深く突き刺さって揺れてくる。ちょうど今月まで新潮で連載されていた奥野修司による被災地のインタビュー「死者と生きる――被災地の霊体験」は生き残った人が霊体験からどれほど希望や赦しを得てきたかを描いたとてもいいルポルタージュだったが、僕は彼ら被災地の生き延びた人々にもこの原民喜が五十年以上前に世界へ響かせた歌がいまも鳴っているのを信じられるようだった。急ぎすぎる復興はときに鎮魂することの重要さすら歴史化の襞のうちにその仔細を忘却の彼方へ流そうとする。
ずっとむかしの記事でツイッターで黙祷する人々を馬鹿にしていたが、僕はその考えを少し修正したい。黙祷なうという人々は今も馬鹿にされてしかるべきだが、黙祷は死者だけに送るものでなくその死者たちを抱えて生き残っている人々にも同じようにやすらぎへの祈りを捧げるものであるべきだろう。
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