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日野啓三の作品は「台風の眼」一作しか読んでいない。基本的に内向の世代の作品はまだ生きている人もいるのに第三の新人以上に絶版が多くてなかなか手に入る機会がない。
関わりがあるとも思えないがこの作品の文体を読んでいるとしきりに古川日出男のリズミカルに切られた倒置文を読んでいるかのような錯覚に陥った。
とあるゴーストライターをやっている男がふと砂丘に惹かれてある町の駅におりる。そこで砂丘を模した見事な盆景を育てる中学生に出会う。その子と一緒に砂丘へ行った彼はそこでその子が不思議な力で呼び出した蟹の群れに驚いて写真を撮る。二重取りになった写真にはどの風景にも蟹が映り込み映像美のようなものを男は胸に抱く。また砂丘で子どもたちが「チンキ」と呼ぶ謎の金属片をひろう。さびれた地元のスナックへ行くと映っていた地元の震災の映像にチンキが写り込んでいたのに気づいた彼は、そのディレクターを探す。
中学生の姉は盲目であるが見事な卵を陶器でつくり、若者のカリスマであるディレクター「ビッキー」のことを知っていた。出会ったビッキーは女装した美青年で、映像の力でもって先人がこつこつと防砂林を育てることで殺そうとしている砂丘を蘇らせようと企てていた。物語はどんどん幻想性を増していく。
この小説は成功しているとは言い難い部分がある。しかし忘れがたい魅力をもっているのもまた確かだ。成功していると言いにくいのはどうもビッキーが現在から見るとそこまですごそうに見えないからだろうか。なんというか顔が女かと見紛うほどきれいだということを除くとどうもTehuっぽいと思ってしまうところがある。あまり有名ではないから知らない人も多いだろうがTehuというのは元自称スーパーIT高校生だ。スーパーIT高校生という字面から漂う情報技術感のなさの通り彼は壮言大語のカリスマに憧れるだけの似非カリスマだ。ぐぐればいくらでも出てくるだろうから詳細が気になる人は調べてみてほしい。こういうと悪く聞こえるが別に僕は彼を嫌っているわけではない。彼はまだ幼くてわかっていないだけだ。誰しも心のなかに大小の差はあるにしろTehuを持ったことがあると思う。永遠の中二病である僕は自他共に認める音痴だがシャワーに入っているときだけは今でも歌手となって大成功している自分のライブパフォーマンスを妄想しているときがある。中高生の時代などはどうしても全能感に浸ってしまうものだし、その恥が後に青春の思い出として甘美なものになる年代だ。
話がそれてしまった。つまりビッキーは読んでいてもなぜ若者に惹かれるのかがわからない。第二章はビッキーの目線で書かれていて、彼の目に映る死にゆく町はとても魅力的であるものの、たとえば僕が似ていると感じた古川日出男の「女たち三百人の裏切りの書」のカリスマ由見丸の方が圧倒的に人を引きつける要素を持っている。ビッキーの発言は多分に中二病だ。前述のTehuがさもすごいことを語っているかのようにする発言と同じように具体性がない。自分がすべてを知っているということをみんな知っているよねという前提を勝手に置いてからの発言だから甘い。
この作品がはらむもう一つの問題は今後の小説全体の問題でもあるが、小説において別の芸術を表現することの難しさだ。僕はこの作品のなかでビッキーの作る映像をまったく美しく思えなかったしYouTubeに上がっているような自主制作映画にありそうな発信者のエゴが強すぎる映像だと思った。しかしこういった印象はこの作品に限らない。村上龍の「愛と幻想のファシズム」や「五分後の世界」は名作だがそこに登場する映像作品や音楽は作品全体と比べるとはるかに落ちてしまうように思った。描写しすぎたのがいけないのだろうか。いま新潮で連載されている古川日出男の「ミライミライ」にはニップノップという架空のヒップホップが登場するがそこには別に変な感じはしない。それは音楽と音楽活動の周辺を描きつつもそのものを描いていないからだろう。僕ら読者の想像力の余地が残されているからかもしれない。
しかし何度も言うようにこの作品は悪い作品ではない。印象に残る描写がいくつもあり、都市の中で自分がたったひとりであると感じたときの茫漠とした感覚を甘美につつんでくれる心地よい幻想に満ちている。振り切り度合いの問題だし、あるいは少し時代が早すぎたのかもしれない。
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