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三島由紀夫の短編には疲れるものと楽なものとがある、これは前者のほうだ。疲れるという言い方は三島由紀夫好きの反感を買うだろうから言い換えれば荘厳なほうの作品だ。なんというかワーグナーのローエングリン第一幕への前奏曲が似合いそうな荘厳さだ。あまりに澄み切っているために捉え難くなっているものに言葉を尽くしてなんとかその光の周囲を囲い縁取ろうとするための文章、それはまさに小説をなぜ書くのかの一つの答えであるように思う。
病弱で幼くみえることにかなり甘えてもいる主人公が父に泳ぎを覚えるよう言われて母や妹、書生とともにやってきた岬にて、一人離れてふらふらと出来心で歩くうちに見つけた洋館でオルガンをひく美しい女性に出会う話だ。
保育園などのころはそうでもないのに小中学生にかけては二十歳くらいまでの年上は特別な見え方がする。この小説の主人公による表現を借りればまさに「美しい人」だ。大人になってゆくに連れて世の中に完成した人間などいるはずもないことなどあっという間に知ってしまうが、この年齢のうちに見る年上にはあきらかに完成したものをみる思いが混じっている。たとえ成長するうちに彼らが実はそうではないことに気づいてもなお、その「美しい人」を見たという意識は変わらない。読んでいるうちに主人公が出会う「美しい人」もまた幼いことはうかがい知ることができる。同じく三島由紀夫の不道徳教育講座のなかに紹介される三島由紀夫に宛てられたファンレター、自分たちがどれほどすばらしい運命的なカップルでそのまま死ぬのかを書いたものがあるのだが、その内容に合致しているように思う。現代語の安易な解釈をしてしまえば中二病だ。中二病自体意味が変遷しすぎているきらいもあるが、自らの狭い基準を劣等感の裏返しとして無条件に崇高なものとして騙そうとすることを僕は中二病だと思っている。これ自身では完成しないのだが、ここに少年の大人への憧れ、大人の「美しい人」といることで紡ぎ出される美しい情景の登場人物になりたいという幼くかわいい驕りが一つの普遍的な情景をもたらしている。
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