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同じ文量の小説で描かれる人物の数も同じであってもその特性の濃さは全く違っていたりする。前作の「十七八より」の時からこの作家が描く人物には明確な独立性がある。独立性はべつになくても小説の試みによっては却って良い効果を生むこともあるものの、若手の作家に限って言えば、登場人物の独立性を濃く打ち立てられる人のほうがその力量を感じさせる。また、僕は小説の本質は二つあり、一方は描写する文体のうねりであり、もう一つは対話が生むうねりであると考え、そのどちらが欠けても(例外はたくさんあるにしても)小説らしさは不足するように思う。小説らしさとは、他の芸術が直接的に普遍的な領域を描くのに対して、この芸術は間接的に、まず現実を模写した表層から普遍的領域へ引き込むプロセスがもつ雰囲気を媒介とする。それはつまり引きこませる推進力さえ充分にあれば現実らしさは全体の1%であっても結果として浮かび上がったものをれっきとした現実から投影された普遍的本質と呼ぶことができる。
この作家の作品に関して言えば対話はすばらしいし筋書きも良い。引き込むものを充分にもっている。小説は読むことと書くことの差をその中心に据えていて「本物の読書家」という題から予想されるとおり多数の小説の引用を駆使してその動力としている。そして狂言まわしの最重要アイテムである川端康成の「片腕」。ペンギン社の「世界短編文学作品集」の中に日本の作家は三島と川端だけだが、その川端の作品こそが「片腕」だった。
あまり多くの川端作品を読んでいるわけでもないが、小説の主人公が言う読書家人生の始まりに面白く読むがそのうち読まなくなる作家という印象は僕自身とても共感できるし、他の人も多くそうだろう。彼の作品のなかで「眠れる美女」と「片腕」は異質な雰囲気を放っている。「片腕」は英語版で読んだから差異は多少あるだろうが、そのどちらにも性的衝動に不穏さが漂っている。ことさら超現実的で川端作品らしくない「片腕」が代筆かもしれないという可能性は「読書家」を強く惹きつけるだろう。
僕は自分のことを読書家だと思っていない。読むのが早いわけではないし一年に百冊読めているかも怪しい年もある。世の読書家が読む創作日記や書簡集のような作家の内情を知ることができるたぐいの文書は読まない。そういう本は高い。その金があったらムーランでも買っていろんなものを裏ごしししておいしいスープを作りたいと思ってしまうから違うんだろう。
読書家はおそらく小説家よりも小説と小説家を知るプロ読者だろう。彼らは小説に憧れ小説を書いてみたりもするがついに小説家にはならない。もといなることが叶わなくなる。映画評論家が監督にはなれないように。たとえ小説家が多くの小説を読んでいたとしても、そこには溝がある。その溝は容易にまたげるものではなくこの溝が顕著にあらわれたのは蓮實重彦の「伯爵夫人」だろう。あの小説はよくできてはいるものの小説としてはなんの真新しさもなく、なにも変えはしないが、小説家たちがこぞって褒めたのは、あの作品が小説家と読書家とをつなぐ橋になるからだろう。だから小説家も評論家もあの作品を褒めたくなってしまう。「本物の読書家」における川端康成をめぐる主人公の疎外感はあの新人文学賞までが与えられた出来事への明確な回答だろう。
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