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一年のうちに二度蛇を踏んだ経験が僕にはある。正しくは車で轢いてしまったのだが。ずっと無事故無違反で制限速度を越えたことがなく、日本よりも何十倍もの頻度で飛び出してくるだ応物たちのことごとくをはねずにかわしてきたのに、蛇だけはどうしてか気づかず、道を渡ろうとしているその上を乗り上げた。この小説で踏まれた蛇は踏んでもふみきれないような不確かな感じを抱いているが、僕が乗り上げた感触は極めて硬かった。まるで門扉のレールを乗り上げるようだった。バックミラー越しにのたうち回る蛇を戻って見に行くと、二回とも、もういなくなっていた。僕はいまでもジョギングコースにもしているその道を通るとき、いつか自分は蛇に噛まれるだろうと信じて疑わない。
こんな酒の席でのちょっとした話にもならない挿話はさておき、この小説においての蛇を踏む行為はそういう不吉さとはまったく違う。いつものように歩いていて、蛇を踏んでしまっただけで急に現実から一気に乖離して足元が危うくなってしまうことこそがこの小説の魅力だ。
小さな数珠屋で働いている主人公の女性は蛇を踏んでしまう。蛇は「踏まれたからには仕方がない」と言って人間の姿になるとどこかへ行ってしまう。そのまま働いて帰ると蛇は家にいて夕飯をこしらえていた。主人公がだれかと聞くと、お母さんじゃないと言うのだが、母は実家にいて電話にも出る。しかし蛇はそれを信じず笑う。そのうちに他の登場人物たちも自分の蛇を飼っていることがわかる。蛇の世界においでよと誘われるたびにそんな世界はないといいながらも主人公は蛇に絡まれる心地よさにうっとりと流されていく。
表題作のもつ不穏さは蛇が人の姿をして誘ってくることよりも、環境音しかない映画を観るような静けさから来るように思う。蛇を踏んで現実が強固なはずだという思い込みが崩れた途端に周囲の音に対して敏感になるような緊張感がある。緊張感がある小さな環境音すら大きく聞こえるが、そうなると却って異様に静かだという印象がますます強まる。したがって重なってくる蛇の声もより妖しくなる。
「蛇を踏む」「消える」「惜夜記」の三作には共通して登場人物が「流される」という印象が全体の雰囲気を染めている。蛇が化けて家族を騙る、妙な風習のある団地で家族が消える、夜の果ての無さのうちに超現実的になってくる、などとそれぞれの作品の中心に据えられている現象とはまた別に明らかに連絡を持ったかたちで主人公は流される。おそらくその現実が地盤沈下を起こした方へ。
水の低きへ流れるままで起きている事象の非現実さに困りながらも強くは疑いもしない主人公の性質にどうも惹かれてしまうのはやはり僕らも危うくなれば低きへ流れたいからだろう。
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