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読んでいて作者の意図するものがなにか僕自身からきわめて遠いものであるために短い作品なのに異質さを強く覚えて読み進めるのに時間がかかった。あるいはそれは僕が京都に保育園のころから住んでいたからかもしれない。同様の感覚は上田岳弘の「私の恋人」におけるオーストラリアの描写でも感じたことだ。ちょうど同じ新潮で斎藤環が中村文則の小説における洗脳の無茶さを指摘しつつも根本の芸術性を受け入れたことに近い気がする。物語の本質にはなんら影響のない部分で目が厳しくなってしまうだけなのだ。京都らしくしようとして却ってそのあまりの京都っぽさにうそ臭くみえてしまった。みんなこんな話すん遅いかなとか、しかもまあ出てくる舞台が僕の住んでいた家に近くて気になってしまう。僕は大和大路通を正面通から上がったところなので、大和大路通沿いに風俗店があったと書いてあるとそんなんどこにあったんかなとなってしまうのだ。
小説の筋はそれこそ京都を舞台にした物語を読んでいるかのように靄がかったつくりになっている。物語の中心である主人公一井と同棲する恋人扶実との関わりや前提のようなものがほっとんど語られないためで、不明なままで捨て置かれたもやもやしたものが読んでいるうち次第に積もっていってなんだか呑まれる気がして、それこそがこの小説の価値だと僕は感じた。たとえば冒頭の鴨川の河川敷を歩いて行く女が誰なのか、扶実はなぜ能面が欲しかったのかとか。そしてどうも登場人物のほとんどが不機嫌で、主要人物は小説だから葛藤を抱いていてなんら当たり前だが、医者である一井がその勤務中に覚えていることは老人たちから漏らされる老生のあわれに満ちてどんどん不穏になる。
物語の根本で最も典型的な文学らしさに近いのは一井がもつ自身の父が自らを堕ろそうとしたその横暴を憎みつつも引き継いでいることへの葛藤だ。その葛藤の行末がまさに予測可能な筋であるために京都を典型的に覆っているだろう雰囲気に迎合して創りだす不穏に呑まれるのを楽しむ小説だろう。
僕はまったく神道などの造詣がないので「みずち」がいったい何を意味するのかわからないからちょっとぐぐってみてもよくわからなかった。みずちには二種類あるようで水子を意味する水稚と龍神の使いである蛇の神である蛟とがあるようだけど、どっちにもかかっているみたいだけど本当はどうなのかしら
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