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あまりに良く出来た作品を読み終えると、読んでいる途中に折々抱く小さな印象、この人物が僕にこのテーマについて考えさせてくれるだのそういったいかにも批評文を書く前提で読むような小賢しさと指摘されても仕方がない印象などが、すべて吹き飛ばされてしまって、いったい何から書けばいいのかわからなくなる。全くもって打ちのめされてしまうからだ。この作品の場合だと、僕はこれ以上のことを確証をもって語れない。「方舟さくら丸」は何を表現し何を伝えようとしているのかというと、それは「方舟さくら丸」だということだ。
世の中に完全な小説は存在しないし今後もありえない。しかし完成された小説は確かに存在する。それらがまさに名作と呼ばれるもので、それはその分量をもってしてそれ以上短縮しきれないある大きなものだ。この気持をなんとかたとえるとしたら例えば「マクベス」を説明するのに「マクベス」の内容以下の文字数では絶対に無理だという確証だ。井上ひさしは「文章読本」のなかで、題が決まれば小説は半分できたようなものだと書いているが、その言葉を借りさせてもらえるら、「マクベス」を唯一「マクベス」を構成する文字数よりも短く表現できる方法は、作品全体を一つの記号に代入されているこの題「マクベス」のほかはないのだと。それとまさに同じことがこの「方舟さくら丸」にあてはめられているのだと僕は感じてやまない。
僕はもうあまりに幼稚だった頃に読んでいて、あらすじなどを覚えておらず果たして読んだと言えないものを除いて、めったに同じ作品を再読しないのだが、安部公房の作品には何度も読みたいような中毒性がある。僕自身はまったくもって安部公房の作品に出てくる主人公とは重ならない。共感はおそらくこれっぽっちもありえない。ありえないというのに引き込まれるのは登場人物のエゴがそれぞれ完全に独立しきっているからだ。世の多くの作品においてその物語は作者の思い通りに進んでいるのだから、登場人物のうち誰かが思い通りに進ませてあげられるように作者に対して気を使わせてるように見受けられる時がある。物語自体があまりに壮大になってくると天の思し召しのためならと犠牲的精神を見せる人間がいてもおかしくはないが、そうでない小説にあってはあえて馬鹿をみせるような物語をより円滑な物語にしようとするおもねりは人間のエゴに反する。安部公房にはそういったおもねりがないのだと僕は感じる。そしてそのぎすぎすした雰囲気に飲まれてしまう。
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