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結婚が相愛の性質を純粋に表現するものでなく、むしろ社会的要素をどれほど多く含んだ契約なのかということを考えさせられる作品だった。二人の愛しあう人間がなぜただ愛し合っているだけでなく結婚もするのかというと、結婚したほうがより多くの社会的な利益があるからだ。男女平等が訴えられ少しずつでありながらもそれが叶っていくなかで、どちらかの家に所属するため移籍するような過去の性質は失われていくだろう。人が玉の輿だと語るなかにはいつだって社会的契約を利用して自らの実力では手に入れられないだろう利益を得る人への侮蔑の風味が加えられているし、魔性というような形容詞を頭にのせがちだ。そしてまるで全く玉の輿でもない結婚こそが純粋な愛の形だといいたげでもある。
映画のなかでもっとも興味深かったのは、保身のためにメディアの前で妻への愛情を過剰に阿呆らしく演じた夫の姿こそが、妻が本当に欲しかった夫の姿だったということだ。恋愛においての倦怠期と呼ばれるものは、それまで相手を落としたくてより好かれたくて相手に気に入られるだろう姿へ近づこうとしていたその姿勢が、相手にもう好かれているという安堵の下でゆるんでしまったためにおきるがっかりするような状態だが、妻の語る理想の夫婦生活はその状態からの脱却だ。二人の個人が互いの社会的利益を最大限のものへしようと努力する状態こそが結婚なのだと妻は、精子バンクにあった夫の精子を使って性交抜きに妊娠することで示してみせる。
僕が生きている間には絶対に結婚はなくならないし、しばらくは貧困層のなかで増えるだけだろう。次第に高学歴の女性から自立性をもちはじめてゆくうちにより一般的なものになってくるかもしれないが、それでもなお上流階級の、結婚という社会契約の利益が大きい人々からは決してなくならないだろう。
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