ブリスベンのカルチュラル・センターにある、ギャラリ・オブ・モダン・アート通称GOMAに僕はたまに行く。
一年に三四回くらいだろうか。
前回は川久保玲によるコム・デ・ギャルソンのコレクションの展示で極めて面白かった。

今回はなんとなく行ったらシンディ・シャーマンの展示がやっていたので衝動的に入ってしまった。
ちょっとチケットは高かった。
そしてあの世界で一番だとか二番目に高価で有名なオレンジっぽいあどけなくちょっぴり匂わせてる作品はなかった。
展示されていたのは主に2000年以降の今年までの作品だった。

僕は絵画の鑑賞方法はあんまりわからない。
大学で少しデザインを習ったけどとても判断力の源になる教養と呼べるほどではない。
ただいつも、いくつもの芸術作品が並べられているあの美術館の雰囲気に飲まれてなんとなく芸術的だなと思って終わりにしてしまわないようにだけ気をつけている。
そのために一つ一つの作品の前にたってそれが自分の部屋に飾ってあるよう妄想する。
大きな作品の場合は自分の庭やガレージにでも置くつもりで眺める。
買えるわけでもないのにパトロンのような気で眺めている。

彼女の作品は背景から彼女自身が際立って浮かび上がるように距離が取られているから、どうやっても被写体そのものである彼女に目がいく。
彼女は様々に仮装し誰かを、ある典型を自らに被せている。

ジャーナリズムを感じる写真は、大国の集まった会合などの場合を除いて、被写体が撮られることを意識していないことがなによりも大きい。
しかし僕らがカメラを向けられたときにする行動はその真逆だ。
僕らは撮られることを意識する。
ポーズをとったり顔を作ったり、見られる自分を思い、その撮られる状況にふさわしくなろうとする。
写真に自らのすべてを代行させようとしているのだ。
それはまるで意識した顔とポーズの自分は実際の自分よりも濃縮されたもので、自らを実際以上に見せようとする傲慢さを彼女は露呈させている。

他の展示物も観ていて思ったが、映像作品は難解だが、ただ眺めるという行為を映像でできるから好きだ。
しかし十作品に一つはなんとなくアンビエントな似たような音楽がかかっているのはまたですかと思う時もある。
それに五作品に一つは朗読があるものの、あまりいい文章じゃないことが多い。
美術家は音楽家ではないし詩人でもないから仕方がない。
仕方がないのだがある画家が別の画家の作品を語るときにあまりに安い詩的表現ばっかり目立っていると、少しがっかりする時がある。
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