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性も愛も本当にその性質を知覚できるのは死を想像できるようになってからだ。
その時が子供時代との決別の瞬間でもう二度と戻ることはできない。この映画はホラーのように作ってあるがホラーではないと思う。

主人公19歳の大学生ジェイは好きになった男の子と車の中で下着のまま初めてのセックスをする。
終わったあとの恍惚感にまったりしていると彼に薬をかがされ気づけば廃墟で車椅子に縛り付けられている。
そして彼は君にこれからあるものを移すと言う。
それは追いかけてくると。誰かと寝るとその人に移る。
その人が死ぬと自分に帰ってくる。その日から彼女はそれに追いかけられ始めパニックになるが、妹やジェイをこっそり愛している幼なじみポールなどに支えられながら追いかけてくるそれと戦おうとする。

追いかけてくるそれとはなにか。
多くの人がそれを性病なんじゃないかと推測していて監督みずからがそれを否定している。
まさに性愛を初経験したときにやっと意識できる死の恐怖そのものを監督は描こうとしているが、性病のようにとられてもある意味仕方がないかもしれない。
性に関する恐怖と死の恐怖はある部分で重なるし。
しかしドストエフスキーの白痴からの絞首刑シーンの引用やラザルスの話もあったんだからわざわざ否定しなければならなかった監督は少しかわいそうでもある。

性交によって移すことと、グレッグが自分の母親の姿をした「それ」による騎乗位で死んでいたことがおもに性病説の蔓延した所以だろう。
人はセックスをしているとき自らが死ぬことを忘れられる。
そのときだけメメント・モリの言葉は聞こえずにすむ。
グレッグについては彼が抱く死のイメージが彼の母親だったからだろう。
ネタバレになるが映画でジェイが戦うことを決意したとき、「それ」が父親の形をとったのもそのせいかもしれない。
また冒頭で「それ」から逃げることを諦めた女の子はとても脚が綺麗だった。
彼女にとっては自分自身の綺麗な脚を失ったらどうしようという恐怖が死自体と重なった結果彼女は脚を膝から真逆に折られて死んでいたのだろう。

そしてこの映画で特に感じたのは、この追いかけてくる「それ」は若い人々しか追いかけてこないということだ。
骨折したジェイがギプスをしたまま海で下着姿になり沖にボートを浮かべてパーティしている男たちの元へ泳いでいこうとするシーンがある。
誰もが彼女はそこで三人のおとこに「それ」を移そうとしたのだろうと思う。
ぼくはしかし「それ」は移らなかったのだと思う。普通のホラー映画ならそれぞれの男たちが死んでいくところを描いて尺を稼いだはずだ。
彼らは遠目に見た感じジェイほど若くはなかった。
彼らにとってはもうメメント・モリは新しく響くものではなかった。
だからジェイのもとへすぐ「それ」はまたやってきたのだ。

プールもまたこの映画で印象的な装置として働いている。
映画序盤でのジェイは家にある小さなプールでぼんやりと浮かんでいて自然の風景をそのまま嬉しく見つめ自分を覗いていた子どもたちにも笑っている。
しかし次に同じプールへ入るとき彼女はもっと不安気だ。
そして終盤ではそのプールはなぜだか壊れていて、最終決戦場の市民プールへ場所を変える。
彼女は次のステージへ移行してしまったのだ
。不安に追われぼんやり浮かぶこともできず、深いプールでおぼつかなくつまさきだっている。
最後死んだはずの父の姿で現れた「それ」に勝ってポールと手をつないで家に帰る二人はまったくもって明るい顔をしていない。
死の恐怖にいまのところ打ち勝てただけで死そのものはなくならない。
追ってこなくなっただけでいつもすぐそばで自分を見ているものなのだから彼らは不安だ。

主演のマイカ・モンローはつい先日観たばかりの映画インディペンデンス・デイ・リサージェンスにも重要なシーンで出ていたが特徴があるというよりも瑕瑾のないタイプの綺麗な顔をしていて演技もそつなくこなすからなんだかアンナ・ファリスのような立ち位置になりそうな予感がする。
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