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自然のなかにいたいという感情は半分わかるし半分わからない。
そして自然のなかに生きるというアウトドアな趣味をもった人々の感情もよくわからない。
自然まで電車に乗ったりSUVに荷物詰めていったり、自然に生きていてもなお人は文化を捨てられない。
人間は自分の周囲の環境を文化しなければ生存できないじゃないか。
人は寒かったら火を起こさなければならない。
食べ物を調理しなければならない。
どの植物が食べられるのか匂いや本能では判別できない。
比較的自然が多い場所へ行って、自分が泊まると決めた場所を一時的に文化して、しばらく過ごすことをキャンピングという。
まったく自然じゃない。

そもそも自然と人間は決して同化できない。
自然と人間が常に食うか食われるかの対称にある。
この映画は社会から脱走したい感情と、社会から脱走した人間が自然を求め結果的に自然に食われる作品だ。
自然のなかにいると自分の無力さがより鋭く実感できるのはよくわかる。
まったく無力にあがくしかなく、そのあがきのなかでもなお何かを成し遂げられたこと、何もできない中にたった一つできたときの喜びは、すべてを否定してなお残るものを見つけ出したデカルトの喜びに匹敵するんじゃないかしら。

見ていてとくに思い出したのは村上春樹の「海辺のカフカ」だ。
少年カフカは図書館にいた血友病患者でホモセクシャルの男性に山奥にある小屋に連れて行かれ、ほとんど何もなく本ぐらいしかない中で過ごす。
この社会から一定の期間隔絶するのはねじまき鳥クロニクルなどほかの作品にも現れる彼にとって大事なテーマの一つだと思う。
たしかに社会にずっとどっぷり浸かっているのはよくない。
社会は便利なものだし、社会があるから人間はここまで発展してきた。
しかし社会には絶対に完璧ではなくどこかで絶対に機能不全をきたしているもので、それが受け入れられない人間は時に距離が必要になる。

映画の中で印象的だったのは主人公の父が大学の卒業式のときにした地面に座ってズボンの裾をひっぱり脛を見せるシーンを、主人公が失踪したのち路上に座って絶望的な表情で再現するシーンだ。
父には未だに息子の失踪がわからない。
だから彼は自分の大学時代に戻ろうとし、自分がそのとき社会に抱いた希望と息子の気持ちとは何が違ったのかと心が叫んでいる。良いシーンだった。

関係ないが最近「そして誰もいなくなった」のCMで藤原竜也が「う゛わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と叫んでいるが、演劇じゃないんだからといつも笑ってしまう。
僕は現実において、絶望のあまり叫びあげている人を見かけたことがない。
というか「う゛わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と叫んでいる人を見たことがない。
別にそれは彼のスタイルだからいいんだけど、これをみて感情移入できてしまう人がいるから抜擢されるわけで、観ていられる人がやばい。
演劇と映画やテレビドラマって対照的で相容れないものだ。
映画が小説と親和性が高いのは機微を直接描けるからだ。
かえって人物や事物を極端に強調して表現しなければならない演劇はもっと絵画や漫画アニメに近いものだと思う。
漫画の実写化は多いけども、こけることが多いのはその難しさだ。
演劇や漫画やアニメで臭くなくたって、映画や小説だと臭くて見るにたえなくなってしまうことはままある。

ちなみに妹萌なひとにはたまらないだろうお兄ちゃん大好き映画でもある。
この映画の妹に萌えた場合「Inherent Vice」は見てはいけない。
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