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アイヌや沖縄の民族にはある種の共感をながらく勝手に抱いていた。
日本人であると同時に確実に日本人なんだと他者から見てもらえるのかが定かで無い不安を共有しているように思っている。
その不安のため自己判断の基準を自分自身に安置できず、他者の目に依存してしまう傾向がある。
それと同時に身体の中には2つの文化が根付いていて、そのどちらか一方を無視しきれない苦しさがある。
幼いころから浸っていた文化は柑橘系の樹木が二種類の果実を一つの木に実らせられるように矛盾せず同居できる。
しかし単民族国家の血を百%持っているわけではない事実は日々の些細なところで見出してしまう瞬間があってむつかしい気持ちにさせられてしまう。

ユーカラの翻訳、日記、エッセイ、短歌、詩や小説などこの作品集に集められた様々な形態の文学作品のすべてに僕は同じたぐいの根を見出した。
そのすべてがもつ根はまさに日本語を操り生活してもなおアイヌであることは変わらない自分たちの存在の主張であり、自らの属するものがこれからどうなっていくのか危ぶむ不安だ。
彼らのたくらみの難しさがページの文面のあらゆるところから見受けられた。
彼らには必要がある。
人々の内部に共振しあうことで自らの存在よりも長く響き渡りうる波長を生み出す必要がある。
そもそも共感が少ないもののなかから普遍的なものを見出しそれを全く違う世界の人々にまで知らせることの難しさがその端々から滲みでるが、それはまさに文芸の本来あるべき姿のようで僕のようにアイヌでないものや全くの純粋な日本人ですら揺らされるものだろう。

県民性という言葉が個人的にはすごく嫌いだ。
人を出身地方で画一的にその人間性まで決めつける考え方はなににもまして差別を助長するものだし文化と人間のありかたを理解していない幼い人間の思考だと思う。
話はそれるかもしれないが、東京都民が自分たちにも地域性があることを自覚していないくせに、他地方の特色をあげつらって笑っているのをみると不愉快になる時がある。
東京都民が持っている都民意識はよく「県民性」で挙げられるような京都がいまだに自分たちを中心だと思っているという考え方よりも一段強く持っているように僕には思える。
しかしそれとて都民性とでも呼ぶべきものでもない。
単なる都会人意識だ。
人に自分が都会人だと思われたい、あるいは田舎者だと思われたくない意識ができるかぎり多くの場所や店そこへの行き方などを覚えようとする。
新しく知り合った人とはどこに住んでいるかを尋ねて、そのあたりへの行き方などを諳んじてみせて「あーそこですそこです」みたいな話をする。
しかしこれだって東京に限ったことではない。
大阪でもそうだ。
〇〇通りのところが〇〇筋のところに変わるだけだ。
土地の地形やその気候、経済は人々に影響を与えるが、それは文化ではない。

話は県民性に戻るが本当に適当な言葉だと思う。
〇〇県の人はおおらかだとか、そういうのは血液型での性格診断と何が違うのか。
朝のテレビ番組で「今日のラッキー都道府県は山口県、ラッキーカラーは赤。西の方角を意識すると何か恋に関するいいことがあるかも?」なんて馬鹿なことが世の中にあっていいだろうか。
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