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辻原登という見事なストーリーテラーが日本にいることを知ったときは本当に嬉しかった。
知った日に大急ぎで「遊動亭円木」を買って半年ほど放置して早速読んだけどその物語の広がりの豊かさ、彩りの多さ、それでいてちゃんと人間を描いているんだからすごいよね。
人情はながらくエンターテインメント側の人間の専属という感じになっていて、あるいはそれを過度に感傷的なものと拒否感を覚えていた人も芸術畑には多かったかもしれない。
しかし、自分の俗さを緻密に描写することで晒してどう私って芸術家顔しながらこんなにも俗人なんですよと描くような小説もどきが腐るほどあるなかで、彼らはそのなかに芸術性があると信じて書いているわけだから、そういった俗人がいくつも集まっておりなす物語にも芸術性があってなにがおかしい。
時に馬鹿な芸術家は自分の俗さは自分自身でわかっていることだから唯一の真実でありつまり芸術だが、物語は真実などでなく芸術でもないと考えることもあるようだ。
しかし真実は決して芸術とイコールではない、イコールなら真実という言葉ひとつで済むし芸術などという曖昧な言葉は捨てられるだろう。芸術はある人の想像力が豊かに広がってとある極地にまで伸びきることができた達成物がもつ性質であり、その過程にいくつかの真実もまた含んでいるというべきものだ。
バイロンの有名な言葉「事実は小説よりも奇なり」をまるで最強の武器のように振りかざす小説嫌いのベースドオントゥルーストーリー好きが世にはいるが、これもまた間違いだ。事実が小説よりもフィクションらしく映るのは一連の関連した事実の流れのなかの一瞬でしかない。人生は物語足り得ないからだ。誰かの人生を思うわれわれの想像力が偉人の数奇な人生像などを作り上げているに過ぎない。小説は一連の関連した物語の流れのなかに奇と真を塩梅良く練り込む。感動が欲しくて映画館に行くキャピキャピした人たちが求める事実を元にした物語もまた、一つの奇が突出したとある事実を想像力によって物語の枠に盛り込み直している。そこにはもう「事実は小説よりも奇なり」の要素はどこにもない。観客は映画が始まる前にもったいぶって厳かに挿入される「Based on True Story」という一文に価値を見出しているにすぎない。市販品に人気グループのロゴ・ステッカーを貼るだけで売れるようになる現代のマーケティングに通じるものがあると思うが、別にそこまでいくともう書きたいことから離れすぎている。

本題はそもそも辻原登の連載小説を読み終わったことだ。やくざにはめられた男と女、やくざたちの抗争を描いたこの作品についてだ。和歌山の田舎町の役場で出納室長をしている男梶が休みの日の楽しみにしている市内へのお出かけの際、Bergmanというバーを営む女トヨ子に入れあげはじめたことから物語は進む、常連になってから職場に毎月届くようになった官能的な内容の手紙に困惑する梶だったが、ついに誘惑に負けてバーの二階でトヨ子と寝る。しかしそれは映像にとられていた。彼女を美人局に仕上げたやくざ峯野に脅され梶は役場の金を峯野に渡すようになるところから物語は進みだす。峯野につけこまれて妻トヨ子を奪われた男紙谷、上部暴力団の抗争に巻き込まれ敵の若頭を殺し高野山へ逃げることになった峯野、峯野に旦那を殺され復讐を誓う妻英子などを巻き込み物語はどんどんおもしろくなっていき、ラストの意外な結末まで僕は毎月楽しみで仕方がなかった。
芸術でもあり楽しくもある。それは文学を書く中で最も理想的なことだろう、しかし、それは難しく、一部のスター作家にしかできないことだ。とはいえ、それがスター作家にしかできないことだとしても、僕にはそれができることが、作家としての条件のようにも思う。たとえ抽象画をあつかう画家にしても写実的な能力がなければ、自分の理想を具体的に筆の先にあらわすうえでの障壁は大きくなるように、小説に合ってもその芸術性よりも先に文章だけで面白いと思わせられる技量を持たなければならないし、その両立は作家の芸術的理想が作家が円熟してくるのにあいまって難しくなってくるように思う。それを辻原登は高い水準でこなしているから敬服する。個人的にはもう少し長くてもよかったとは思う。英子の復讐はもちろん本筋ではないにしろもっと入り込みがあってもよかった。ある意味彼女はトヨ子と対をなす立場にあったわけでもあるから、その二人が同じ場にいて全く別の考えをもっていることへの緊張感は読者にしか味わえない旨味であるし、そういうものを与えられる才能を作者自身が持っているからだ。
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