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山下澄人の作品は前回短編「はっきり言って覚えていないのだあの日ほんとうに自殺したのかどうか」みたいな長いタイトルの作品以来だ。その作品では正しい意味での自伝的小説だと思った。
この作品はなんとなく応募した有名な脚本家による俳優養成講座に受かってそのためにおそらく東北の方へ主人公の自分が行くところからはじまる。そこでは【先生】と呼ばれる脚本家による集団生活の場ができており出来る限り自給自足で生活しようとしている。慣れない農作業をし、意味もなく馬を飼い、そのための厩を作る。一年前から居た一期生がぶいぶいしていて自分たち二期には発言権がない。彼女になりえた女性「天」はそのうちに恋人をつくり結婚する。主人公はひたすら疲労しその無駄さにばかり目をむけその無駄さをありがたがっている人々を眺め、おそらくなにも演劇について得ないままその地で一年を過ごし、自分はその思い出をこうして物語にしたのだと告げる。
人間の集団がみんな同じ理想をもつと新しい秩序が生まれるが、大概どれも似たようなものになる。左右どっちだろうと傾きすぎれば全体主義になる。ほんとうにこの【先生】や一期生たちのうざさを上手に描いている。そもそも【先生】は自分からは何も教えられない盗んでくれといって自分の無能を序盤から晒しているし一期生たちは時間を有効的に使わなければという同調意識に狂って休みの日すら「研究日」と称して何かを勉強しているふりをしなければ休めないようになっている。いったい山奥で自給自足して演劇のなにを知られるというのか。その最大の疑問は物語を通して意図的にごまかされている。金がかからないという謳い文句に主人公は騙されて行っているわけだ。彼が一年で費やした労働力はどれほどの金になったのか。金縛りにあうほど彼は疲れた。肉体ばっかり疲れすぎたために精神よりも先に肉体が眠りについてしまうために起きる現象になるほど別の仕事で働いたなら、彼は都会の演劇学校へ行ってさらにいくつもの演劇も見に行ける金を手に入れられただろう。もちろん貴重な体験ではあり、全体主義的集団を内部から眺めるこの稀有な経験は彼の物語を書いた作者にとっては大きな糧になっただろう。
辛辣に辛辣に自分自身のことをありのままに書くと、それが私小説の極北と呼ばれる。自分自身を小説化するから私小説なんじゃないのかと僕はずっと気になっている。自分のことをありのままに書くのは私事であって小説ではない。申し訳程度に客観視したり違う名前を与えたりするのはノンフィクションやエッセイとあまり変わらなくなる。自分自身の経験を物語化する。山下澄人のこの態度こそが正しい私小説なんじゃないだろうか。その方へもっと私小説は進化していくべきなんだ。たとえばここから更に発展して、どんな人も二面三面顔をもっているようにそれぞれの面が人格化され作者の経験を下地に物語を構成する。自らの経験を多角的に掘り下げることこそ本来私小説が目指すはずだった個人のことからも人間全体にまで演繹できるような真実や芸術を表せるという目標をかなえられるんじゃないだろうか。自分の経験にただ「小説的表現」というボロ切れをかぶせて小説面して文芸誌のページをとっているうんち老小説家がどれだけいるか。島雅彦なんて全然ましだ。ナルシシズムが強くて衒学的でジョークのセンスと自分の作品に没入する根性がないだけで、すくなくとも挑戦はしているし、人生に不要なことに詳しくなれるという小説の存在理由のひとつを満たしてはいるんだ。
藤枝静男という私小説家はすごい。彼を稀有な私小説家という評価で置いていてはいけない。感覚器が得た情報を脳に送り咀嚼し信号が腕へ伝わり文字を生むまでの距離にどれだけの広がりを見せられるかが芸術の如何だ。リアリズムでもなくシュールレアリズムでもなく想像力だ。想像力の広がりだ。
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