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読書が好きだしとくに純文学という教養や知性の証明というか裏付けをアピールするためのものとしてひっそりと生きるほかないジャンルが好きだけど、ただただシーンの印象的なつながりのみで持続していくような作品は苦手だったりするのだが、自分でも不思議なことに映画になると最後まで楽しめたりする。おそらくそれは印象に説得力があるかないかの違いなんだろう。小説におけるよくわからないがなんとなく印象に残るシーンもあるいは一人の作家のきまぐれからぽろっと筆の先から紙上におちた染みのようなものかもしれない。しかし映画となるとすべてのシーンにはさまざまな人間が関わっており、その誰もが一つの印象を協力して再現しようとするおおきな投企性が画面全体から滲んでいて、それのおかげで僕は画面の前から離れられなくなってしまう。実際のところぼくはそばにダンベルがあったからそれで運動しながら見てたし腕立てをしはじめた時には声しか聞いてはいなかったが面白かった。
トマス・ピンチョンの小説は原文でも翻訳されたものも読んだことはない。読みたいとは思っているがどっちにしろ高すぎる。僕は貧乏だからほかの安い本を選んでしまう。それにポストモダン味あふれる作品を読むのは怖い。それが自分に合った場合には酩酊するようなすてきな読書体験で数々の不明な印象にある種のインスピレーションの素を自分の頭脳にとりこめた喜びがあるが、これが逆に全く自分に合わないと、気に入らない場面も無駄に印象的なせいで自分の脳からは離れなくなって頭をしっちゃかめっちゃかにされたような気分の悪さを覚える。
この不可思議な映画は見終わってもなお結局なんだっのかと問われるとよくわからないけど60年台アメリカの上と下、表と裏を全部見ることができた気がするという感想しか出てこない。彼自身は決してポストモダンでもなんでもないのだが、ポストモダンを理解するために必要な素晴らしい鍵を太宰治はこう表現している。はっきりとは覚えていないが、一つの真実を描くために百も千も言葉を尽くさなければならないのが小説だと。真実そのものが一つの観点からはみやぶることのできない茫漠とした大きなものであるばあいはもうその三次元的な外縁をすべて描き切ってしまわなければならない。悪をあばき元恋人が自分のもとに帰ってきて彼女が求めるままに彼女を後ろから抱こうとも、すでに60年台そのものが廃れうるものだった以上、もう元には戻れない。
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