上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
とてもするどく深刻なジャーナリズムだ。その日以来すでに七十年がすぎているが、いま現在の日本に育って広島、長崎に落とされた原子爆弾について習わなかった子供はいないだろう。僕もこの痛ましく惨たらしい出来事について絵本や、教育映画や、ドキュメンタリーなどで繰り返し聞かされてきた。しかし子供への心理的影響を危惧してかその被害の表現は比較的抑えられていたのだと今では思う。川に累々と積み重なる死体も、光線のあまりの強さで階段に焼き付いた人の影や、敬礼の姿のまま炭化した教官など、いくらかデフォルメされていて、ことさら殺されることの恐ろしさにまだ十分理解の及んでいない年齢だった僕にはひたすら現在は都市として復興している人間の立ち直ろうとするエネルギーの強さにばかり関心が向いていたのかもしれない。
当作によって伝えられた強烈すぎるイメージはあらためて戦争が無慈悲にもたらした、やりすぎた殺戮だったのだと否応なく再確認させられた。この作品群で描かれているのは忘れられるわけのない人々の苦しみと、被害者から立ち直れない現実だ。
はっきり言ってしまうと林京子の筆には余裕が無い、そこには芸術が介在しない。あるのはただ感じるままに伝える筆と、被爆者であることについての冷笑的なものの見方だ。それはおそらく原子爆弾が与えた圧倒的なほどのトラウマによるものだろうが、それはあまりに峻烈でどれほど年齢を重ねようと余裕が介在していい性質のものではないのだろう。そしてそれを補うように、あるいはよりするどさに磨きをかけるように非被爆者である読者と被爆者である彼女との間をきっぱりと寸断する溝を冷笑で彼女は切り込んでいる。この冷笑はまさに原子爆弾の炸裂を経験した自分にはとうていそれをフィクションにできないという強い意志がある。
関連記事
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。