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まるで堀江敏幸や辻原登の作品を読んでいるかのように心の暖かくなる短編集だ。あるものを軸としてそこを中心に事物を描いてみせる手法は王道でありながら、まさに人生のどうにでもなる性質をもっとも効率よく浮き立たせるのかもしれない。
いまはなき二つ並んだ世界貿易センタービルの間にロープを渡し綱渡りをしてみせたフランス人がいる。彼が奇術を行ったまさにその日を基軸にニューヨークのひとびとを映し出すしかけになっている。しかし本来なら肝心となるはずの綱渡りの描写は限定的で、最低限にしかなされていない。作中において彼はほとんどなにも話さず、ただ厳粛に綱渡りを行っている。しかも物語の登場人物のほとんどはその日綱渡りがあったことすら知っていなかったりする。しかしそのために、どのような人であれ日々を厳粛な綱渡りで過ごしているし、綱渡り師はそれを象徴としての熱狂にまで持ち上げるパフォーマンスアーティストとして物語の上空で常に燦然と輝いているのだ。
そしてこの物語群はどうじに、アイルランドからきた自己流の牧師Corriganの物語でもある。偽善だと言われようと利用されているだけだと言われようとブロンクスの娼婦や孤独な老人のために部屋を貸したりピクニックをしようとする彼は、隣人愛が決してその見返りによって助けられることを期待することでなく、隣人愛的行動そのものが自分自身を救済する手段だということを示しており、彼の存在は綱渡り師と同じくらい、あるいはそれ以上に強く物語全体に柔らかな影として広がっている。彼を見ていて遠藤周作の「深い河」における牧師大津を思い出すのは自然ではないだろうか。彼は人がどれほど救いを求めていて、しかもその感情を、他者を救いたいという咄嗟で鋭い欲求のなかに見出しそれを言葉少なに掴みあげて僕らの前に広げてくれている。
そして、この小説の最後に著者が附していた一文がまさに小説がどうあるべきかを語ってくれていた。Literature can remind us that not all life is already written down: there are still so many stories to be told.文学はまさに文章の芸術であり、それは人を描くためにある。世の中にはときにただ著者の知識を開陳しているだけだったり主義や政治思想が強すぎてそれ以外をおろそかにしている小説が現れるが、やはり人間がしっかりと描かれなければ長く人の心に残りはしないだろう。
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