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平野啓一郎「一月物語」

高橋弘希の作品を読むと、平野啓一郎のことを連想せざるをえない。といっても二人は少し違う。ごめんなさい。少し程度にしか違わないのか双方ともにむっとされそうだから先に謝っておいた。たいがいのことは先に謝っておくと言っても大丈夫になるのだというのは嘘なのだ。先に謝ると余計に腹立たせるだけなのだ。ともかく、この二人の小説家は前者が現代擬古小説であり、後者が擬古文の現代小説だ。どちらも現代文ではとても語りえないことがあるのだと主張している点では同じなのだが。
文庫なので物語のあとには解説がついていて、そこには演劇評論家が当作と能との関連を語ってくれていてすごくたすかった。僕はなんか劇的だねってくらいにしかわからないので視点を補助してくれるこういった解説はときにとってもありがたい。しかしまあ能の知識なんてちっともない僕はむしろ展開も描写もアニメ的なんだと思った。文体は多くの死語を使いつつもあくまで擬古文であり、明治大正期の文学にありがちな、五七調というか、浮世草子から流れを汲んだようなリズムはない。狂言まわしは幾分夢野久作を思わせる点があるにしろ、シーンの区切り方は映画的ないしアニメ的に印象的な対象へズームされている。
この手法に馴れるのにはじめは苦労した。この小説内で見て以降もう一生お目にかからないような単語が氾濫しているため情景を思い浮かべられない。しかし、途中で、知らない言葉は音だけひろって楽しんで分かる言葉だけひろっても意味が通じるしよりわかりやすく情景をおもうことができて楽になった。
この小説は不思議な魅力をはらんでいる。たとえばAmazonのレビュアーたちや読書ブロガーなんかは彼の本を酷評している。彼らのおそらく多くは自身小説家にあこがれているんだろうと僕は勝手に判断しているが、彼らにはこの本が許せないようだ。彼の擬古文を過去の文豪たちにはかなわないのに真似して古典面している権威主義と批判している。しかしそれこそ権威主義的なんじゃないかと思う。小説家を目指す人はまず最初に権威主義的になってしまう。小説を知っていないと小説を書けないと思ってとりあえず有名どころを読んで自分が小説をたくさん知っているアピールをしたくて飢えているから、平野啓一郎のような擬古文をみつけると、それを擬古だと見抜けられる自分の慧眼を自慢したくなってしまうのだ。しかし彼らには残念ながら乏しい資質しかなくて自信のためには他者を貶す以外の方法を知らないからだ。彼らは悲しきモンスターだ。そしてこうやって彼らを貶めている僕がいるという無限ループを味あわせてくれるのがこの小説の魅力の一つなのである。
現代は真剣に悩む人を産めなくなった。これは現代における作家にとっての最大の課題だと思う。存在することやこの世の真理のようなものを真剣に悩むには特殊な状況を作らなければならなくなった。そのためにわかりやすく例をあげれば村上春樹は月が二つある世界や井戸の底へ主人公を飛び込ませなければならなかったし、村上龍は五分後のパラレルワールドを用意した。平野啓一郎の擬古的世界もまたその一つなのだ。自然そのものの美を完全に理解できたとき人は自然そのものと同化してしまい、自然そのものを観測できなくなるという作家の命題を描くため、この文体と世界は必要だったのだ。言文一致のすすみすぎた日本の文壇に彼は確実に一石を投じたのだと思う。
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