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中上健次「地の果て 至上の時」

僕が生まれる年に亡くなった作家であり僕に流れる日本の血も元は紀州であるため彼の作品を読む前から勝手な仲間意識を持っていた。しかしはじめて「岬」を読んだ時、まだ幼すぎた僕はちっともその作品を理解できてなどいなかった。ただ読書してる俺かっけーで、エンターテイメントではない文体の字面を目でおって悦に浸っていたばかりだった。しかしそれでも複雑な家族構成がもつうねるような力や、主人公秋幸が感じている肉体労働への喜びが印象に残っていた。
それからしばらくして続編である「枯木灘」を読み、これはまさしく小説だと心打たれた。路地がもつ土着的な結合力が秋幸を前作より強く捉えて、苦しみと喜びに揺られるあがきにこちらも心動かされた。その後も「重力の都」や「熊野集」などを読むにつれて、まさに肉体を持った作家として中上健次はぼくのなかで特別な位置を占めた作家となっていた。
そうして読み始めたこの作品だが、ぼくはこのところ小説を読み始めるとき、冒頭の第一段落を紙に書き写している。書経のような気分だ。書き写そうとすると何度も何度も同じ文を読んでいくことになるが、そうすると物語に入っていくための下地が自分のなかにできあがって、次の段落からもうすっと入れるような気がする。くわえてこの作品の冒頭はまったくもってすばらしい。その後読み進むにつれて、広がっていく筋がすべて予言された完璧な冒頭だ。
 過去の二作と今作が続いていながら決定的に違うのは、路地が消滅しかかっているという点だ。強引な手法で土地をてにいれ山林を伐採して王となった秋幸の父、浜村龍造によって彼の故郷は都市開発の手に侵食されていた。削られた山は血を流すようにあちこちから清水を湧き上がらせ、路地の女たちは身体にたまった毒を山の清水を飲むことで癒やすという新興宗教に狂っている。蝿の糞の王と呼ばれる浜村龍造の子、秋幸にとっては腹違いの弟秀雄を殺した秋幸を浜村龍造は兄やん兄やんと追いかけ回し、秋幸こそが浜村龍造がうさんくさく持ち上げる先祖の雑賀衆浜村孫一を継ぐもの孫一そのものじゃと自分自身を乗り越えさせようとしてくるが、秋幸はすべてがまったく変わってしまった路地にあって煩悶する。
 文庫にして600ページの長編なのでまとめるとかなり無理矢理だが、おおまかには父と子、土地と神話が主軸だとみてかまわないだろう。登場人物は長編にしても多い方だし、しかも名前が出るたびに秋幸からすればどういう人なのかを小説は教えてくれるがそれでもこんがらがりすぎてわからなくなる。最重要なのを上げれば主人公秋幸、実父である浜村龍造、浜村龍造とともに悪さをしてきたヤク中のヨシ兄、そのぐれた息子鉄男、かつて子分だった良一、秋幸から暴力的に子分にされた若い衆、路地のすべてを見聞きしてきた飲み屋のモン。これだけの名前さえわかっていれば他がわからなくてもなんとかなる。
 しかしその中でもとくにまがまがしいのは浜村龍造と秋幸だ。この二人ほど小説を読んでいて傑物だと感じたことはない。彼らの行動は必然と偶然とが混同されている。彼らは絶えず行動し発言するしそれらはさも当たり前のように行われるものの、その動機は欠いたように説明されない。それが幾重にもつづくうちに神話を読むような陶酔感をぼくはかんじた。
 しかしこの小説は「神話化に失敗する」ことを主題としている。枯木灘の時点で秋幸にとって路地はすでに神話の地だった。人を産み育てそしてまた食らう生きた土地だったのだ。しかしその神話の地は父によってまさにその息の根を止められようとしていた。そこで秋幸は父を継ぎ越えようとした。枯木灘と同じように労働のなかに美を、生きている自分を見出すように藪を刈る。そうして「神話の地を壊そうとするもの」として自分を固定化しようと準備し、それを完了するため、殺されることを求める父を殺そうとするとき、龍造は自殺する。彼は望んでいた自分になる道を絶たれ「ちがう」と叫ぶ。そしてヨシ兄も死んだと同時に路地はその血を流しきってしまった。もうどうしようもない路地の消滅を完了させるほか自分の道がないことを悟った秋幸はまるで神の荒御魂を司るように路地に火をつける。
 一年中本を読んでいても、自分の心を捉えて離さない、忘れることのできない小説にあえることは一年に一冊あるかわからない。しかしこれはまさにそういう本だ。ぜひいろいろな人に読んで欲しい本だし、もし読んでいただけたならYouTubeに中上健次が撮影した路地の映像があるからぜひみてほしい。音もない動画だが、ぼくは遥かな気持ちのたかぶりを感じた。
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