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Don Delillo “Falling Man”

アメリカ同時多発テロ事件が起きたとき、僕はまだ九歳そこらで、翌年に僕の人生にひとつの転換を与えてきた盲腸の手術も経験していない、友達の家にゲームをしにいくのだけが楽しみのアホガキだったころのことだった。父は今でもまだアミーガを使っているようなパソコン好きで、仕事のない時間はずっとパソコンでなにかをやったり見ていたりするような人だったが、その父がその日何度も「ありえない!」とおおきな声を出してBBCやいろいろなチャンネルを回していた記憶がある。アホガキでまだ確固たる倫理観なんて一善も持ち合わせていないような当時の僕は、ビルに突っ込んでいく飛行機を映画のように見ていて、その衝突のたびに繰り返されたおびただしい程の死を感じられてはいなかった。明確にそれを思えるようになったのはずっと後のことでもう高校生になっていた頃だったんじゃないかと思う。それはThe Falling Manで知られるあの有名な写真だった。いまでは彼が誰なのかもわかっているらしいが、以前として彼はどのような理由で落ちてしまったのかはわからない。あの自由落下に向いているような姿勢で彼は落ち続けている。
物語はもちろんテロによる傷であり、それは個人としての傷、アメリカとしての傷が描かれ、ドン・デリーロ得意の文体によって、911を経験した今に馴れてしまっている人々からそれを異化している。倒壊するビルから逃げることのできたキースはその足で別れた妻リアンのもとにいき、このまま元に戻ることもあるかと思う一方、なんとなく持ちだしてきてしまったブリーフケースの持ち主に連絡し、その女性と関係をもつ。彼はあの日以降非現実的になってしまった現在でふらふらとしている。リアンはアルツハイマー症の患者たちのクリニックで毎日忘却にくるしみながら何かにすがろうとする人々をみつめる。リアンの母の恋人マーティンはヨーロッパ人で客観性をもてないアメリカを批判する。それぞれの部の最終章にはテロリストの目線があり、彼らは再度ビルに突入する。この円環的な物語の上空にはFalling Manと呼ばれるパフォーマンス・アーティストがあの有名な写真のままの姿勢で高い所からぶらさがっている。
小説内でもっとも対照的なのはもちろんキースのトラウマとアルツハイマー患者たちの忘却だろう。忘れられないのに思い出す苦しみと思い出したいのに忘れる苦しみ。ギリシア神話において忘却は眠りと死の姉妹であり、いわばカタストロフィを生き抜いたキースはその対極にある不死性によって苦しめられているし、リアンは日常的にゆるやかな死を見つめている。興味深いのはこの作品が事件から六年だか七年後に書かれているということだ。イラク戦争における軍人たちを描いたフィル・クレーのRedeploymentもここ最近の作品だ。トラウマを克服するための方法としてはそのトラウマをすべて言語化することにあると思うし、小説内で行われているアルツハイマーの治療も認知行動療法的な手法のように見受けられるが、そうやって言語化できるようになるにはそれほどの日数がかかるのだろうか。そういう意味では、東北大震災とそれに伴う原発事故のトラウマ、これに関しては直後から一部の小説家が焦ったように作品に落とし込もうとしているのも見受けられたが、最初の傑作があらわれるのはこれから数年のうちと考えられんじゃないだろうか。
またパフォーマンスアートについても考えさられた。ドン・デリーロはかねてより作品にそれを伴うことが多く、ぼくは特にコズモポリスにおけるパイ投げ男や、抗議のための焼身自殺をした男が「彼のやったことはオリジナルじゃない」と言われてしまうところにかつてないほどの衝撃をうけた。スマートフォンが人口にあまねく普及し、誰もが記録媒体を持っている現在においてパフォーマンスアートの価値はかつてないほど上がっている。日本では岡田利規が「スティッキーなムード」でパフォーマンスアートを取り上げていたから個人的に気になっている。
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