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蓮實重彦という名の字面がすでにものものしくて難解な評論で、影響下の子どもたちを大量に抱え派閥をつくっている、評論家という恐ろしい生き物の代名詞的存在と思って勝手に恐れていた。以前群像だかに掲載されていた「ボヴァリー夫人論」刊行記念公演での話が前提として知っているべき文献が多すぎて難しすぎてこれっぽっちもわからなかったので、もし恋人のお父さんがこんな感じの人だったら絶対いやだろうな等と敬遠しがちなところもあった。しかしこの度新潮に掲載された本編は面白かった。怖そうなものが怖くなかった時には必要以上に気を許してしまう現象におちいってしまった。
端的に言ってしまえば、これはハーレムものの艶笑小説だろう。あらゆる場面でその機会に恵まれながらも不如意な射精ばかりして本願である「中出し」を達成できずそれどころか金玉を潰されかけたりする主人公の構図は「ToLoveる」などの少年ジャンプによくあるハーレムものと同じになっていると言っても過言ではない。
僕は小説の折々の場面で引用や暗喩されているらしい古典や昔の映画についてはどれもわからないし男装ができる和製ルイーズ・ブルックスと言われると片桐はいりしか思い浮かべられない。しかし、それでも主人公が手に入れたくても手に入れられないのにまとわりついて離さない性という危険を孕んだ魅力は、評論家と芸術との隔たりを暗喩していることはわかる。評論家として生きることは作家として生きるよりもずっと辛いことだとかねがね考えていた。その思いを強くしたのは群像新人評論賞の優秀賞などを読んでからだが、ここでこうやって自己満足で書評を書いている僕なんかとは違い、評論家のたまごたちは教養も読書量も遥かに上回っている。世の中に評論家よりも本を読んでいる人はいないだろうし、これからもその傾向は強くなると思う。たとえば小説家の多くは自身ある程度の読書家でありながらなにか他に趣味などを持っていてそれが彼らの個性となっていたりするが、評論家の場合、彼らにはひたすら本しかない。だれかの構築した世界しかない。膨大な量の世界と知識によって新しく生まれた世界を評価するために使用する。
自分自身評論家でありながら、評論家を頭でっかちの童貞あつかいにするその意気込みはすばらしいし次号の文芸誌の書評欄はきっとこの作品を含まないものはないだろう。執拗に繰り返される金玉潰しとその呻き声は芸術にいつも期待してはその芸術に自己の創造性を否定されてきた評論家の悲哀の叫びだろう。
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