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色川武大「怪しい来客簿」

孤独な人だと多くの人々が思い浮かべようとすると、たとえば時代遅れの飲み屋で上下スエットでキャップ被っているような人を思い浮かべるかもしれない。
この人はきっと日雇いに近いような仕事をして飲んで博打をして勝ったら風俗にでかけているんじゃないかと考えている。
しかし彼らは本当に孤独なんだろうかと僕は疑問に思うことがある。
恋人がいたり家族があったりするなかでも孤独な人はいくらでもいる。
相手のことを思っていながら思いすぎるがゆえに話すべきことを話せず何も大事なことを打ち明けられない。
思いやりの不可侵な距離感が家族内でも存在する。
それならまだましな方で、親が子を疎ましく思い、その逆でもあるような家庭だって少なくはない。
どやにいて安定のない世界でありながらそこに安住している顔をしている。
僕はたまに入ったそういった飲み屋で話しかけられる。
僕はそれを人情だとは何を間違っても言おうとは思わないが、流儀なんだと考えている。
彼らはよっぽどコスモポリタンな性格を持っているんじゃないかと思う時がある。
彼らは僕がどのような状態の人間なのかどう話しても「そうか」で飲み込んでしまう。
それで「きみ〇〇は好きか」と自分の話に入る。
他者の存在を認めそれを自分の世界から排除しようとはせず自分の世界は主張する。
最近のグルメ漫画などでよくあるようなたった一人で殻にこもって悦にひたっている閉鎖的な個人主義とはまったく違う。
昭和という時代は一つの時代のうちに西洋かぶれでもあり国粋主義的でもあり荒廃と高度経済成長と変革ばかりであった時代だが、それらにすべて順応できた人間などいるはずもないと思っている。
一芸の時代だと思う。一芸の他に何もない人間が時代の波間に浮かび上がったり沈んだりした時代だった。
そのなかでもどうにか食っていくために彼らはこのような受容的無関心と自己主張のないまぜな性格を形成したのかもしれない。

色川武大はそのような人々にとてもあたたかな眼を注いでいる。
輝かしい全盛期を過ぎて壮絶な落ち目へと転がり落ちていってもなおその世界から出られない著名人たちや、不幸がついて回ったようにあがいても逃れられなかった彼にまつわる人々を思い起こす一連の短編集は、どのようになっても生きようとした人々の悲哀をときに笑いとともに味あわせてくれた。
特に僕が惹かれたのは町の阿呆たちについての話だった。
毎日のように同じことを同じ街角で繰り返していた彼らこそ戦火から生き延びて、復興の象徴となるべきだという彼の論に大きな感銘を受けた。
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