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原発事故より描かれる近未来小説は読んでいてどうもひっかかるものがある。
この作品は現在68歳の小説家が描いたものだけど、彼女にはインターネット層の右傾化があるいはそのように見えているのかもしれない。
原発事故より三十年後、セシウム137の半減期を迎えたことを寿ぐ放送が独裁国家となった日本に流れた。その三十年の間にまた別の事故を起こしたし、純ヤマト民族以外みとめない国となっていた日本の東京湾を主人公の老婆は悲しく見つめているというものだった。
僕はかねがね小説家は政治を積極的に語るべきじゃないと思っている。過去にも現在にも政権や体制と戦ってきた芸術があったが、それらのうち生き残って人々の心を捉え続けたものは芸術が先んじていて、その芸術の追求をするついでに政権や体制を描いてきただけにすぎないのだと思う。
日本が他国家の民族を排除するようになるかもしれないのはまだ可能性があると感じるものの、沖縄やアイヌはもうすでに取り込まれているように思われるし、そういった人々が差別されるのでなく、たとえば僕のようなハーフなどが先に排除されるんじゃないかしら。そういう意味ではハーフがはいて捨てるような労働者になっている村上龍の「五分後の世界」のほうがリアリティがあるように感じた。
しかし僕が真実だろうと感じる部分ももちろんあった。三十年の間にまたべつの原発事故を起こしてしまうこと、そうしておきながら先の事故での半減期を祝うその行為にはありありとしたリアリティを感じた。セシウム137が土壌内では予想される期間よりもはるかに長く蓄積され、環境的にみて半減期をむかえるのは200年規模になるというウクライナ政府による研究が発表されているから、なおさらこの皮肉は聞いているように僕には感じられた。水俣病もそうだが、あやまちが犯される規模が組織や法人など大きくなればなるほど罪の意識や責任感は薄れてあいまいになり学習がおろそかになるその人間の性質を捉えている部分だと思った。

書いてからアップロードするのをめんどくさがって忘れているうちに津島佑子さんは亡くなってしまった。
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