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山田詠美「チューイング・ガム」

山田詠美に対して偏見を抱いて読まない人はけっこう多い。
私は美人でいけてて外国人とも対等に話せてしかもニューヨークにあるいきつけのお店で黒人青年と恋に落ちたりしちゃえるのよ、な小説だと勝手に思っている。
まあおおむね当たってはいる。
彼女が蝶々の纏足など女性の怖い友情などを割りとデビュー後すぐから書き始めていることは今回は触れないでおく。
そのいけいけな認識のため彼女はこの国のワーキングホリデーにとっては憧れの存在あるいはワーキングホリデーになる動機付けとなった存在だからか、シドニーにある古本屋「ほんだらけ」において山田詠美は西村京太郎や赤川次郎をさしおいてそこの本棚のほとんどを占めている。
しかし山田詠美が実際たんなるいけいけ小説を書くだけの小説家だとしたら、こんなにも長いこと愛され続けるだろうか。
実際に彼女の物語を手に取りページを繰るとよくわかるだろう。彼女の小説は前例のないほど、素直で率直な愛情に満ちている。情景や主人公二人以外の人物に対する描写は極力排され、自分の相手に対する愛情、相手の言動の素晴らしさ、また相手との出会いで新しく知った愛における真実、それらのことだけに筆は運ばれ、それらだけで200ページもの作品に仕上げている。圧倒的な筆致だと思う。それは並の小説家では真似ができないことで、ひとつのテーマにひたすら突き進み潜り込んでいく体力のない作家が筆を尽くしやすい情景の描写に逃げて、物語にブレを与えてしまいがちになるなかで、彼女は恐れるところを知らないように主人公が愛する対象にのみフォーカスして、その目を離さない。僕は山田詠美の顔をここ最近の写真でしか見たことがないけれど、彼女を観るとき、僕はどこか日本から離れている人だという印象を受ける。
そこには日本人がかねてから無駄に愛してきた「照れ」という傲慢がない。あれは明治が虚勢で作り上げた日本人像だと僕は決めつけている。あの時代は世界に対してまだ自信がないから何をしても無粋なんじゃないかという恐れがあったのかもしれない。そのため無粋を恐れる気持ちからそもそも無粋で何が悪いんだ俺は働いているという開き直りが生まれたのかもしれない。もちろん開き直りは他者への愛より自分への愛が勝ったときに起こるものだ。それはいい愛情だろうか。
日本人は本来自分が好きになったものに対して詳しくなりたがる性質が強い。いくぶん頭でっかちではあるから先にデータを集めたがるところに「照れ」の雛形になった部分が見えるが、山田詠美はこの部分を上手に扱いながら女性作家らしいみずみずしい身体的な感性でそれまでの日本人が持ちながらも恥ずかしがって隠してきた愛情への志向を曝露したのだ。
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