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津島佑子「オートバイ、あるいは夢の手触り」

二輪車は不思議な位置づけの乗り物だと日頃から思ってきた。
大して荷物が詰められるわけでもなく、原付ほど小回りがきく利点もない。
ただ他の車の間をすり抜けられて、そして加速が早い。すべての車を抜いていける能力からすけてみえるのは、この形態の車両がたったひとりで行き先を決めそこへ向かうことに特化していることだろう。
この短い物語の主人公は大学の非常勤講師をする女性で、過去に離婚を経験してそれ以来一人でいる。そんな彼女のまえに、オートバイ乗りたちがあらわれてくる。
まずはフランスの海外県(ニューカレドニアだろうか)出身の女性が語る、島で唯一のバイク乗りだった彼女の曾祖母の物語を皮切りに、実家が裕福でなくなってから急にオートバイを買って乗って、いつしか売った主人公の伯父、そして美術評論家をしているという妻子持ちの男がもつ移動手段としてオートバイは語られる。

映画イージー・ライダーからのイメージがとても強くあるだろうが、バイクという乗り物に自由の匂いを嗅ぎとる人は多いだろう。
しかしそれは決して正確だとはいえない。バイクが司っているのは自由そのものではなく、自由を希求する精神だということだ。
それはつまり何をしてもいい立場をもとめてバイクに乗るのでなく、自分で自分の行動を決め、その責任は自分でとらなければならないという無頼の精神を求めた結果オートバイという機械に人はまたがる。
ここまではこうして、バイクと、それに乗ることがどういうことかに焦点をあてたが、この短編において重要なのはそれ以上に、バイクとバイクに乗る人を見る、バイクに乗らない人にとってそれらが何を意味するかだろう。
第一にバイクはうるさい。構造上仕方ないだろうし、またそれがなくては乗っている意味がないと思う人が多くいるだろうが、通行人の多くはうるさいなーとまず思う。
そしてバイクは危ない。加速と小回りのよさに依存して無茶な運転をする人もあるし、車からしたらそれでなくても危なっかしい乗り物だ。
バイクに興味がない人にとってはバイクは至極うっとうしい乗り物でしかない部分もかなりある。
極度に人を選ぶオートバイの個性は趣味的であるがゆえに、ただオートバイが路上にあって走っているだけで、周りの車両は彼の趣味に付き合わされているような感情を覚えて不快になる。

人は自由を求めると同時に他人が自由を求めた結果自分の自由が脅かされるのを恐れるしそれに怒る。
イージー・ライダーの結末が頭に残っている人も多いだろう。
まったくの他人であった人のもっていたオートバイは、伯父のものであり、かつての恋人のものであり、段々と一度たりともオートバイの所有者にはならなかった主人公のもとへ、その音をならしてやってくるかのように近づいてはくるのだが、物語は唐突に最後の段落を前にしてぶった切られる。そのぶった切られた一行を開けて、物語は主人公にとってオートバイはそれでもう無縁なものになったことを告げる。もうその音を聞くことはなくなったと。
津島佑子は一貫して母子家庭や離婚した人を書いているようだが、この主人公の女性もまたそうだ。そして非常勤講師として働けたことを幸運に思っている彼女にはしかしもう自由を求める音が聞こえてくることなどないのだという。男女の格差がかつてと比べればよくなってはいる現代だし、女ひとりで生きることが昔よりもずっと容易いが、男性がたったひとりで生きていて得られる自由を求める意志、それはいまだ一人でいる女性には渡らないのだと物語は告げているように思える。
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