前回文芸誌に掲載された「+51 アビサシオン ザンボルハ」を読んだ時も思ったけどほんとわけわかんないよね。それなのにおそらく伝えたいだろうことはちゃんと伝わるからまあいいんだけど。
というか演劇自体僕はいくつかの安部公房と三島由紀夫の作品、シェイクスピアの悲劇くらいだから演劇というのはもうイメージで考えるしかないし、オーストラリアにいる身としては戯曲はどうしてもレーゼドラマにしかならない。だからまっとうな評価を僕はできてなどいないと思う。
しかし小説がその可能性を常に模索し、さまざまな他媒体とのクロスオーバーを図っているし、映画の台頭もあっては、演劇というのはかつてよりかなり追い詰められた表現方法なんじゃないだろうか。もちろん偏見なのはわかってはいるのだが、どうしてもその模索のみちは詩に近づくことしか残されていないのではないか。古川日出男や華雪との対談で川上未映子が言っていたように、小説と違い詩は最悪自分一人のために描かれており、読者を必ずしも必要としないような側面もある。そうすると演劇は誰に帰属する詩なのか。それは劇作家であり演出家である。
一人の人間のエゴイズムを何人もの他者が介助し、そのエゴを憑依させ、より大きな枠に広げたもの。ぼくは寺山修司の演劇を、ウラ・アオゾラブンコに掲載された冒頭でしか知らないが、まったく同じようなものを感じた。
小説家が戯曲を読んでまず感じるのは、戯曲は饒舌な媒体だということだろう。人間が生で放つ言葉にその重きを置き、滑舌を意識した演劇の語りは、文章や文体の構成や音律の美しさでなく、まるでその場で紡がれた言葉のように、なまなましい言葉のエネルギーをはらもうとする。
神里雄大の作品は、僕がいまの演劇という媒体に抱くイメージそのものだろう。あえて一昔前の演劇のように暗喩と象徴にあふれた大仰な語り口で、わけわかんないけど、なんとなくわかることを言葉にしたい自分自身を展開したのだろう。観劇するのに値段もまだお手頃なので、だけどシドニー公演には行けないからブリスベンにも来てほしいな。そしたら見てみたいよ。
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