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いしいしんじ「浅瀬にて」

この人の本は「ポーの話」しか持っていない。それも友達におすすめされて買ったものをそのまま積んである。友達にすすめられた本はたいがい積んでしまう。だって他にも読みたい本がたくさん積んであるのに、自分の感性で買った読みたい本を先に読んじゃうのはしかたがないと僕は開き直る。
この新調に掲載された短編がはじめて読む作品だった。面白かった。いわゆるぞっとする話によくあるものの系譜にそって描かれてはいるものの、不思議な読後感は彼特有の風景によるものだろう。

村の神話と呼ぶにはメルヘンに過ぎ、住人の多くは海を恐れて入れないのに、一部の入れる人がとるものに頼って海産物を食べ、漂流物で塔をたて祈祷する村。その不気味な祭祀の塔には不思議な人格をもった穴があり、主人公の少年はその穴に魅入られ村の残酷な事実を知る。しかしその穴に見初められたことに気づいた彼の祖母は彼に鈴を渡してそれをつければ大丈夫だと言われ海に入ると、かつて捨てられた奇形児たちのあつまりを見つける。祖母の忠告どおり眼を背をむけずにそこから離脱して海から帰ることができたが、村では漂流物の塔が倒れ、彼の祖母はその下敷きになって死んだ。しかし葬式で自分が穴を捕まえようとして失敗した結果なんだという友人の話を聞いていると天から祖母の声がきこえ、気にするなという。主人公はハッピーに明日からまた生きられるようになった。

謎の文化の謎の風習ほど好奇心をくすぐり、不気味な恐怖をあおってくるものはない。それはこのメルヘン的な民俗的な小説世界にあっても適応されることをこの短編は証明している。村の長老が百歳どころじゃなく生きているような世界では捨てられた奇形児が海に適応してそこで暮らしていてもなにも不思議ではない。それよりももっと不思議で僕らの世界にも普遍的なのは穴とは何者なのかということだ。穴というのは物質が不在する空間だが、それと同時にその底になにかがあるかもしれないあるいはなにかとつながっているかもしれないというような期待を抱かせるものでもある。深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだ、というニーチェのあまりに有名な文句を思い出してしまう。危険な好奇心は常に危険そのものと隣りあわせではあるが、その危険を自分のことを犠牲にしてまで覗かせることもまた重要ではある。感慨深い光に満ちた一篇だった。
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