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古井由吉はもはや彼という人間そのものが小説のようになっている。彼や黒井千次、すでに去った人々なら小川国夫や日野啓三などの内向の世代、それまでの私小説の域を超えていった彼らのうち最も精力的で最もありがたがられてる作家だろう。
だってまず見た目がかわいくてやさしいおじいちゃんだし。彼の紡ぐ文章はよどみなくメロディとリズムがよくて、彼のような年齢の境地になくてもすっと読めてしまうし。しかも又吉との対談で彼自身が語っていたように、年をとるにつれてただその年齢にあるのではなく、少年、青年、壮年とかつての自分が経験したことが、なにかをきっかけにその触媒に関連した事物を思い出して何重にも生きているようになってくるというその感覚に若い文学青年はあてられてしまうからだし。そんなかんじがまさしく文学界における人間国宝じみてきているからだ。
先月の群像での21世紀の暫定名著をきめるなかで確か佐々木敦が、文壇全体で古井由吉や大江健三郎をフィギュアのように崇めていると語っていてなるほどそのとおりだとうなずいた。
この連作のなかの一作では時の刻みのひややかな恐ろしさと食べることの哀しみを語っている。物食う哀れについてだが、第一に語っている人に食わせてもらう哀れを理解できるような年では僕はなかったが、その次にあった、壮年期の夜中ふと切迫してがつがつとものを食ったあとの虚しさはしみた。つい先日、恋人の友達のパーティーに呼ばれたらふく食べたのに、自身が場で浮いていたことへのやるせなさへのあてつけか、帰宅してシャワーを浴びると猛烈な食欲に襲われた。こんな時間にやめときなよという彼女を尻目に、インスタントラーメンを茹で、にんにくとごま油で炒めた白菜とえのきを乗せてご満悦になっていた。どうしてそんなもの食べるのと言われながらも、がつがつと口にふくんでいった。うまかった。しかし一割も食べないうちにふと悲しさがよぎって箸がとまった。そのとき口に含んでいた麺の食感が気持ち悪く、飲み込むのに苦労した。もう麺を眺めているのすら辛くなって流しに捨ててくると、そんなにパーティが嫌だったのと喧嘩になってしまった。我ながらほんとうに悪いことをしてしまったと思って今まで苦々しく思っていたが、この段落を読んだ時なんだか救われる思いがした。古井ちゃんほんとにありがとうね。
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