長野まゆみ「冥途あり」

長野まゆみという作家について、僕は少年アリスしか読んだことがなかったし、もう一冊古本屋で大量に小説を買ったときにおまけでもらえた「雨更紗」というハードカバーで、本棚に積まれたっきり肥やしになっているが、これも少年もののようだ。
彼女について僕は少年ものの物語を書く、ショタコンと呼ばれる少年愛業界の元祖のような人で、いまは鉱石を通販しているという、なかば偏見の塊のような考えしか持っていなかった。

しかも僕は去年の三月から文芸誌を読み始めたから、そのためにこの小説の後編をなす「まるせい湯」のみを群像で読んでしまい、そのために余計に読者おいてけぼりかよなどとネガティブな感情を抱えているばっかりだったが、このたび単行本も買って、前篇を読み、その偏見をあらためさせられることとなった。

父の葬儀の際、父が文字職人であったこと以外なにも知らなかったということから父と自らのルーツを求めていくところから物語が進んでいくが、父も自らのルーツもそこまで語られない。この小説は父よりも父が生まれ育った東京に焦点を強く当てていて、その今はもうあらかた跡形の消えた下町の風情や情緒を恋して、そのエネルギーにのってふわふわと短い話が漂ってまとまっていた。
僕はいなかものだから東京の地理はよくわからない。夏目漱石や谷崎潤一郎の小説を読んでいてその描写がわからなくて、「高慢ちきで鼻持ちならへん描写やわ」と負け惜しみを言っていたが、長野まゆみの描く下町はまた違った。その描写は丁寧で質感があり、においすら感じられる。小説の語り手真帆の抱く情緒に乗船させてくれる。

これは自伝”的”小説だ。自伝ではない。そのようにすべてが配置されているし、それらの配置はみな作者の必然によっている。たとえば祖母が戦前から紫水晶の指輪をしていてそれが祖母の誕生石だと祖母が自分で知っているように書いてあるが、誕生石の概念が日本で定着したのは終戦から十年後くらいだからどことなく矛盾するし、骨折などしたことない父の遺骨はどれも頑丈そうに見えたのだが、その前に父が背骨を圧迫骨折しておりその時の身長測定で十センチ以上縮んでいて衝撃を受けた描写があったりもする。しかしそれは了解されている。題材は作者自身によっていても、これは情緒のために構築された虚構だからだ。

この小説の虚構性を強く支えているのが、強引に法螺話を割り込ませてくるカシマのおじさんとその双子の息子たちだ。今も昔もグレーゾーンな仕事で収入を得ている彼らはもちまえの話術とかたやぶりな性格で物語を撹拌する。とくにカシマのおじさんについては、親族の集まりになると必ずいていろいろと子供に適当なことを吹き込んだりする、みんなが「〇〇のおじさん」と呼んでいるが、その由来はよくわからないという、親戚あるあるになっていて面白かった。

父への哀愁と追憶は、前編「冥途あり」にてほとんど語りきられ、後編である「まるせい湯」に入ると物語はより決意をまして物語然としてきて、追憶から情緒のほうへ重心を移動させる。かつては大量にあった湯屋の思い出、寛大な湯屋「まるせい湯」の最後の営業日に行こうということから、女将の奈波さんの父である青一についての双子による勝手な語りによって、前後編通じて物語に緊張感を与えている、昭和の人々の忘れられない戦争の記憶というテーマを展開する。

これは明らかに長野まゆみという作家の新境地だ。本人も野間文芸賞受賞後の三浦雅士との対談で、今の自分が書くべきものを書いたと語っている。芸術家がみずからの新たな可能性を模索するなかで、まったくの創作に手をだすよりも、自分のなかの要素に手を貸してもらうのは最善手だと僕は思う。次に彼女が書くとしたらそれはきっとまったくの創作になるだろうし、そう思うと今後どういった作品を出すのか今からとても楽しみになる。
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