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古川日出男「女たち三百人の裏切りの書」

去年のうちに読み切るつもりだったけど無理でちた。
なんだったら谷崎賞級の大作だと思う。
古川日出男という小説家は以前から気になっていたが、この度の野間文芸新人賞の受賞にあたってはじめて読んでみた。
彼が500ページにも及ぶ大著の中で繰り広げていたのは他の作家にはない異様にねばつく物語と作家であることの自由と傲慢さに満ちていた。
まったく新しく発見された古代魚を捌こうと出刃包丁を持ったように、いったいどこから切り込みを入れたら上手に開けるのかがわからない。
しかし、これは源氏物語と平家物語という公→武へと移るものの過渡を大胆にも現代の感覚でとらえようとしている。

あでやかなやんごとなき公の世界に匂い立つ不穏なもののふの感覚。武はつまり我を押し通すことだが、そのために公の世界のうちで穏便にその我をじわりじわりと染ませてゆく気分のときにとられる手法、それが女の裏切り。
物語は物語であること自体をうらぎってすすんでいく。
物語に女が現れるとき、謎が現れるとき、誰かが裏切るとき、武が振るわれるとき、物語は大きくすすんでいく。
古川日出男はそのすべてを総動員して源氏物語という巨大な船に大いなる推進力をあたえ、400ページかけてじわりじわりとその速度を上げさせていった。

すぐれた長編小説が評するには大変むずかしいのは、それがあまりに多くの寓意を含みテーゼを含み、それらのひとつひとつがたとえ物語の本筋に大きく関与していなかったとしても、強い魅力をはらんでいて、とても「ただ評するだけだから」と看過できるものではないからだ。
ただでさえ難しいのにあらすじを語ることすらこの小説では困難だ。
筋の裏切りを語るのはネタバレになってしまうのに裏切りにあふれたこの書にあってはほとんど序盤しか語ることを許されない。
武力をもった公家がいて、根っからの武士がいて、悪僧がいて、海賊がいて、神がいて、殺人のプロがいて、裏切る女たちがいる。それら全員が企んで、物語を自分のものにしようとしている。そうとしか僕はあらすじを描くことができない。

裏切ること、それは企みをもって嘘をつき嘘をついた対象をある段階で切り捨てることだ。余談だけど、金目当てで結婚して相手などこれっぽっちも愛さず死ぬまで相手を、自分は愛されているんだと思わせたのなら、それは裏切りにはならないよね。だって期待に答えているし。
物語ははじめ紫式部の怨霊を憑依した少女「うすき」によって源氏物語の最後の十帖、「宇治十帖」を語り直そうとするが、物語はそれを裏切って裏切りを重ねるたび不穏に、おどろおどろしくなってすすんでいく。
人為的につくられた現人神由美丸と彼の率いる海賊の物語、流刑に処せられそこで殺人のプロとして養成され本朝に年貢としておさめられる蝦夷の物語、奥州武士とうしろで糸をひく商人犬百の物語が入り込んできて、それらもまた「新・宇治十帖」の一部として組み込まれていて、それらの登場人物もまた自分たちが登場する物語をみる。そして物語を読むものすべてが熱狂する。物語が時代に呼応して適応して人々を熱狂させる。小説が社会に対して力を失ったといわれる現代において、物語の力をゆっくりとしたしかし確実で強い推進力で死の淵から立ち返らせた。
僕がまた惹かれたのは彼の文体だ。馴れない人にはとことん馴れないだろう、ライトノベルやサウンドノベルゲームの文体をどこか彷彿とさせながら十二世紀の気風にも合う独特の文体は、主語の使用を節約したり、造語や古語で説明を完了したりする、不穏だが歯切れの良いリズムは雅楽がなり芥子の匂いが舞う世界に適応しているし、ある部分でジャズにも通じる気氛があると思う。
表現において特に秀逸と思われたのは、蝿を飼いならす神の描写だろう。著者自身ここの描写は自分にしかおそらくできないだろうと語っていたが、たしかにその神の映像美は蝿という汚穢と腐敗の象徴を司る存在の特異さを浮き彫りにし、またその神すら凌駕する由美丸と彼にしたがうシ衆の勢力の強大さを描き出しており、独立して小説になりうる海賊たちの物語の夢の様なただよう神仏習合的な中世の色を強くこぼしている。
この作品は確実に2010年代の文学を語る上でのエポックになるのではないだろうか。また、村上春樹の多くの作品のように謎を多く含みそしてところどころ映画的な映像美をはらむ彼の作品があまねく人々に受け入れられる日が来るとしたら、その時こそが、文学の復権するときだろう。
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