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デモという暴力

個人的な意向として、あまり政治に冠することは語りたくはないと思っている。
なんというかよっぽどの知識もないうちに政治を語ると薄っぺらく見られてしまうように感じる。

しかしデモによる政治的主張はとりあげず、デモという手段にのみ焦点をむけることにする。
ぼくは京都という昔からデモの多い街に住んでいたからかねてよりデモは迷惑極まりない存在だった。
デモが生み出すのは、喧騒と渋滞と人の自己満足に付き合わされるうんざりとした気分のみだと見切っている。
ヘイトスピーチだとか、それに対向するだとか、そういったことも大事なのかもしれないが、ただゆったりと洋菓子でも食べに出てきた中学生のころのぼくのようないたいけな人間にとっては迷惑以外のなにものでもなかった。

そもそも騒音は暴力といってもさしつかえないんじゃないだろうか。
左右両方から嫌われている米軍がイラク侵攻時にメタルを大音量で流し続けたという作戦があったくらいだ。
左右関係なく公に主張せずにはいられない彼らにとって正常に機能しない性器よりも大事な拡声器によってぼくは幾度と無く難聴の恐怖に脅かされた。
ガンジーの非暴力主義やヘンリーソローの市民的不服従などと比べたら単なるデモという行為はまったくの茶番でしかなくただ老若男女無関係に不満とインポテンツを抱えた人間が、自治体に申請をして許可をえて、自治体に見守られるなか好き放題に叫んているだけの、予定調和の擾乱でしかなく、ぼくのような不満もなく性器も正常に機能しているような人にとっては何の肯定的な感慨も生み出さないお遊戯にすぎない。

民主主義が脅かされているらしいことや、日本がアメリカや中国の犬になっているらしいことや、在日外国人がこの国をだめにしているらしいことなどの彼らの主義主張もきっと大事なことなんだろうということは問題のあまりの大きさに処理しきれず頭がパンクしてインポテンツになりそうなほどよく理解している。
しかしデモという彼らのED治療にむざむざと付き合わされることを通じてその大切さなど、陰毛の重さほも伝わりはしない。
ちょっと自らに課したタブーを犯して政治的なことをいうと、あのインポ世代はどうしてあの年にもなってあの闘争のことからなにも学ばず、平和のためにといいながらぼくら無辜の市民の生活を妨害しつづけるのだろう。
これは左右関係なく普遍的なことだが、何も持てなかったりした人間に残された最後の慰みものが政治だということだ。

政治というものはぼくらの生活に直に接触する部分の多い基盤であるから、無関心であるのは懸命なことではないにしろ、その地盤がゆらぐかもしれないということを論理的に語らず、道端で喚いても狂人かな? としか人は思えないから、そんなことに一生を費やすのはむなしいことだと思う。

今、花田清輝のもうひとつの修羅を読んでいるが、ここで語られている公家的なものと武家的なもの、敵を味方のように味方を敵のように扱う態度や、非暴力な修羅の道の考えはこれからの時代に再評価されるべきだと思う。
たとえば大学生がさいきん主張しているのはまあ別に悪いことではないよ、花田清輝も政治も宗教も大衆の積極的な参加があってはじめて再活性することができると語っているくらいだし。
しかし年寄りどもが、その若者に、政治的主張の悪い方法論ばかり教えているような気がするのは気に入らない。同じ道を進ませたいんだろうか、政治の衣をかぶりつつ性欲だけで集まって内部で愛撫しあい最終的に総括しあう狂った修羅の世界へあのいたいけな無知な大学生たちを導きたいのだろうか。
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