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悲劇は常に人の心を揺らす。
ハッピーエンドを嫌う人が一定数いるようにバッドエンドを嫌う人も一定数いる。
しかし悲劇とバッドエンドは決して等しく置換される言葉ではない。
その最も簡潔な説明はニーチェの「悲劇の誕生」を読めばより詳しくそして正しくつかめるかもしれないが、つまるところ主人公が展開に翻弄され本人すら気づいていない破滅的熱狂に身を任せてゆき固体化されていた自己を失っていくことに覚える高揚を伴う劇を悲劇と呼ぶ。
ウディ・アレンの描いたこの映画はまさに美しい熱狂そのものだ。
主人公セシリアは映画を見るのだけが楽しみで、ロマンチックな映画のシーンを仕事中に思い出しては仕事が遅れ店長にどやされついに馘首される。
若気の至りで結婚してしまった旦那は賭けと酒ばかりで愛の無い生活が続き、慰めを求めて上映中の映画「カイロの紫のバラ」を何度も観る。
すると主役のギルが「君はもう五回もこの映画を見ているどうしてなんだ」と映画から飛び出し彼女を連れて町へと出る。
主役を失った映画は先へ進めなくなり、物語が面白くなくなった観客は不満を言い映画内のキャラクターと観客は口論する。
ロマンチストそのものとして生まれたギルはそれを夢見てきたセシリアにとっては理想的な男性で二人は恋に落ちる。
映画会社の人々はパニックを起こしギルを演じた役者トムもこの状態が続けば自分の経歴に傷がつくからと収拾のためその田舎町へやってくる。
その後紆余曲折あってセシリアは彼女に恋したという現実のトムを選びギルは彼女のことを思ってスクリーンへと帰る。
夫に別れを告げ荷物を持っていそいそと映画館にいるはずのトムに会いにいったセシリアだったが一難去ったトムはもうハリウッドへ帰っていた。
失意のうちにセシリアはかつてのようにロマンチックな映画を放心したように見つめているのだった。

まさに悲劇そのものだ。
悲劇の手本とされて久しいオイディプス王がいわば本人の意識していなかった行為で破滅を迎えてしまったように、この悲劇にあってもただ全員がすこし自分勝手なだけで明確な悪人はおらず、ただそれぞれの諸行が連絡し合い熱狂を生み、そして悲劇へと導かれてしまったにすぎない。
ギルはただセシリアを幸せにしたくて、セシリアは現状を抜け出し幸せになりたくて、セシリアの夫は自分としては満足している現状を失いたくなくて、トムは自分の経歴に傷をつけたくなくておのおの行動した結果なのだ。
ある意味他人を思って行動したのはギル一人であるともいえる。
彼は同情と優しさと恋と彼に付与されたロマンチックな性質によってセシリアを幸せにしようとしたが、その幸せにしようとした善意自体が、その後の悲劇をもたらす端緒となってしまった。
セシリアを演じるミア・ファローの演技はやはり上手で、主体性がなく夢見がちな女性を見事に演じきっている。ウディ・アレン映画のヒロインに外れはないから当然だが彼女も圧倒的な魅力を放っている。数あるウディ・アレン作品の中でも上位に入る名作だといえる。
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