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綿矢りさの作品は「蹴りたい背中」しか読んでいなかったし、しかも読んだ当時は自分のなかになんら芸術を感覚するうえでの指針のようなものもなかったから、果たして本当に理解できていたのかもわからない。
しかし当時から「蹴りたい背中」をはじめ「かわいそうだね」や「勝手にふるえてろ」などタイトルに関してはなかなかいい感性を働かせてくる人だとは思っていた。
井上ひさしはかつて文章教室のなかでタイトルが決まれは作品は半分できたようなものだと言っていたのだが、そういう意味ではタイトルが決して内容を裏切らない綿矢作品における読後感の爽やかさはそのような慎重に選ばれた題名の微妙がなすものなのかもしれない。
ちなみに同じ京都出身でありそこに住んだことはないもののゆかりの多い左京区にいたというだけでなんとなく好ましく思っている。
京都の人は身内びいきが激しい。

群像に掲載された今作は友情のほか母子家庭の深刻さと因果、メディアによって犯される個人の領域などが主軸として描かれ、主人公は語り手ではなく最近露出がふえてきたモデル「だりあ」であり、語り手は個人の生活をもっていながら物語および主人公にたいして積極的にはたらきかけ、グレート・ギャツビーにおけるニック・キャラウェイの位置をとるのかとおもいきやギリシア悲劇のコロスよりも物語に絡んでくるし彼女自体がある種の葛藤を抱いている。
小説を葛藤が生まれそれに対処しようとする試みと定義すれば、この小説にはふたつの物語があるともいえる。
実際のところどんな事件があったとしても大概の人間には普段の生活があるため、よくあるエンターテイメントのように100%自分の時間を問題に費やせるわけでもない。

だりあが抱える葛藤と主人公の抱える葛藤には距離がある。
精神的な幼さとでもいうべきか、大概のことに冷静で時に唯一の友人である語り手に頼りつつも弱音を吐きはしない。
しかし主人公はまずファッションに支配されていて自分よりも可愛い服を着ている自分を愛されたいなどという考えからも少女的な思考がにじんでおり、そういう観点からみれば彼女は人の外面をしかみていない。
そのため親がシングルマザーでありしかも遊蕩しがちであったためなかばネグレクトされながらもまるで人形のように服を着せられ、大人になってからもモデルとして服を着せられつづけ自分で服を選ぶことのあまりないだりあを、語り手がまるで価値もわからないのにもったいないといった感じに妬んだり馬鹿にするような感情を抱いているのは読者のだれにとっても明白だろう。
語り手は幼さのために好きなバンドのメンバーが抱いている下心(それは多分にだりあに向いていたにしても)見抜くことができず、また隆史という妻子持ちの男性にもたやすく翻弄されてしまう。

しかしそれでもなお物語が失速せずそれどころか終盤ではさらに勢いが増すのは明らかにふたりを結ぶ友情がなすものだろう。
だりあの妊娠が発覚してからのマスコミとの鬼ごっこは替え玉の戦略を練り実行に移そうとするも陣痛そして破水というトラブルを経ていく過程はまさに起承転結の転でありエンターテイメント性が高く面白かった。
特にタクシーが赤信号で停車したときにとなりについたマスコミが偽物である語り手をひややかな目線で見つめている情景は強く頭に残った。

だりあと語り手の友情は二人が小学生だったころよりはじまる。
団地で引っ越してきたお人形のような容姿でお人形のように服を着せられていながら、団地の子どもたちのボスを泣かせたりする語り手からすれば畏怖の存在として表れる幼少期のだりあは、怖いけどしかたなしにとついてくる語り手に薔薇の茎を握らせ痛みをあたえる。
泣きたくなるが恐怖の方が優っていた彼女はだりあが満足するまで握らされた。
その通過儀礼を経て友達としてだりあに認められた彼女は互いに唯一無二の友人となるのだが、そこでも語り手はだりあが食べてているものに嫌悪感を覚えたりと完全な受容ではないことが示されている。
友情というのはある種お互いの身勝手を許し合える関係のことを呼ぶのかもしれず、そういう見方からすればこの小説におけるだりあと語り手はまさにお互いの身勝手な感覚をおしつけあいつつ気にもしていないように見られる。
表題にもあるウォークインクローゼットは語り手にとっては人生における一番の夢であるかもしれない。
それをだりあは持っており、彼女は持っていない。
せまいクローゼットにかけられた彼女の服は時に湿気臭くなり彼女を陰鬱にさせる。
服のセンスがいいという彼女にとっては大事な条件を持った片思いの友人ユーヤは自身片恋をしているため惚れはしないもののだりあに惹かれ、語り手を女としては見てくれない。
しかし彼女はウォークインクローゼットを失っただりあが謝礼も込めてくれた大量の服を上等すぎて自分には似合わなくともいつか自分色にそれらをなじませてやると意気込み手入れすることで明らかに物語の始まる以前よりも一つ成長しドラマの当事者でなくても人間はなにかを感受できることを示してくれた。
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