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澁澤龍彦の「毒薬の手帖」を読んだんだけど、この偉大な人物の博識さには本当に驚かされる。
南方熊楠などもそうだが、教育による手段化された知識とはまったく毛色のちがった、いわば一次資料を読み漁った知の巨人ともいうべき人々がひとつのテーマのもとにその膨大な器から知恵をそそぐと、ただ蘊蓄をかたむけるだけではない、なにか壮大な人間の本質そのものがそこにはらまれるように感じられる。

毒薬、その言葉はいつだってぼくらにドラマを感じさせる。
それは他殺にも自殺にも使われるが、たとえば保険金、あるいは邪魔な人物の除去、心中などに使われたりするのは、つまり毒薬は自分の欲望を叶えるための薬だ。
自分の願いを叶えてくれるもの、そういったものを想像するとき、ぼくらの頭に浮かぶのはなかば魔法のようなものじゃないだろうか。
多くの化学物質が人体におよぼす作用機序がはっきりと理解されてはいなかった時代、それはじつのところ割りとここ100年ばかり以前までそうだったのだが、ある特定のガスや鉱物や動物や植物やそれらの分泌物などが人を殺しうる力をもっていて、しかもそれらを手に入れるのを防ぐような法律もなく明確な解毒剤もないとなれば、それらはいま僕らが毒物を見つめるのより、よこしまな人間にとってはずっと魅力的なものに見えたに違いない。
現代においてもいまだに毒殺事件というのはなくならないし推理小説のなかでもディクスン・カーの時代より現役でいつづけている。
名古屋大学の女子学生が高校時代の級友にタリウムを徐々に盛り、神経障害をひきおこさせ失明にいたらせたのはまだ耳に新しい。なにものかにポロニウム210を盛られた亡命ロシア人アレクサンドル・リトビネンコのことを覚えている人も多いだろう。
これだけ化学物質への知識と医療技術が向上した現代では毒殺が多くのところで毒殺であると発覚してはいるものの、それでも既存の医学の盲点をついた事件も起きてはいる。たとえばトリカブト保険金殺人では二種類の毒がそれぞれナトリウムチャンネルに対して真逆に作用するために拮抗し毒を本来より遅効させ半減期の差によって片方の毒が効いてくるという巧妙なトリックが用いられた。
なぜ毒という魔法がここまで人を魅了するのか。毒殺には死の感覚が薄いからだろうか。銃の引き金を引けば全身に衝撃が走る。刃物で突き刺せば肉に刃の食い込む感触を直に感じられる。毒は飲食物にぱらぱらとかけたりして終わりであるだけなのに、相手に自分の殺意を知られないまま一刻一刻ごとに苦しみがましてくる憎い相手を心配するふりをして思うざま眺めていられるその余裕がそれほどの魅力をもたらすのだろうか。それならば今よりどれほど科学技術が進歩しようと毒殺は決してなくなりはしないだろう。
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