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 人は死を見据えることでより行動的になれるのは言うまでもない。老人が政治運動に熱をあげるのは単に暇をつぶしているだけじゃないということだ。映画「ファイトクラブ」でブラッドピットはおびえるコンビニの店主に銃を突きつけ彼の本当になりたかった夢を聞く。彼は獣医になりたかったと答える。ブラッドピットは彼の免許証を抜き取り「あと一か月で獣医にならなかったらおまえを殺す」と脅す。獣医になりたかった男は逃げ去っていき、ブラッドピットは彼を責めるエドワードノートンにこういう「彼は明日から全く違う人生を送るだろう」

 日々は無言のうちに過ぎていくというのは、ミランクンデラの「存在の耐えられない軽さ」からの言葉だが、死あるいはそれに近しい喪失の予感を持たない人々の生活は淡々と音もなく過ぎていく。平穏な日々のうちには声高に発しなければならない言葉も、言葉を超えた行為もその必要性を生み出さずまどろむように進んでいく。

 自分たちが死ぬということを人々は容易に忘れることができる。そうでなければやってられないからだろうが、自分がいつだって死にうることを棚に上げて健康に対して僕らは過敏になっているんじゃないだろうか。発酵玄米などの不自然な食べ物をとり白砂糖やトランス脂肪酸を極端に恐れ商品の成分表示を救いを求める人間が聖書を読むように真摯に見つめている。健康になって余命を伸ばしてその延びた時間でさらに健康になろうとする。当人たちはそれを人工物にあふれる社会に対しての反抗のように得意げだが、最新の技術と保存料で腐るまでの時間を延長されている現代の食品と一体どれほどの差があるだろう。どう見たってこれは人間のおごりの現れだ。先進国の人間は全員が自分を選民と思いながら生まれつく。自分には世界のすべてを見る権利があり、あらゆることをできる可能性があり、幸せにならなければならない。皮肉なことにしかしその意識とは裏腹に、僕らの多くは世界のすべてを見れていないし、できることは限られているし、これといって幸せでもない。それなのに選民意識はなくならないし現状を打破しようという明確な行動も起こさない。自分が満たすべき項目が満たされていないのはなにかの間違いだからもう少し待ったら改善されるだろう。そのために時間を稼がなければならない。だから延命をしようとマクロビなどの健康志向の偏食をしだす。
原発事故を機に人々が2000年以降抱いていた二十一世紀の安全神話が崩れるだろうと思っていた。技術が進歩してもなお僕らは日々死の危険にさらされている。複雑化しすぎた技術のためにかえって僕らは身近なものがどれほどの危険をはらんでいるのか知らないでいる。ありとあらゆるものが一般の人間にとってブラックボックスとなって、死の危険におびえた。しかしその死の危険に対して人々がとった行動はさらに健康を目指すことだった。家庭の経済は健康と信用を買うことにのみ費やされるようになった。さらに進んだ健康志向が効果を奏している部分も確かにある。ストレスが今まで以上に毒物として扱われ、その解毒のために日々の生活の充実を求めだすようになりストレスを過剰に与えてくるいわゆるブラック会社への風当たりが強くなったのはどうみたって良い面だろう。

 しかし僕はやっぱりなんか違うと思ってしまう。健康志向が生産性に直結していないように思えてしまう。アフガニスタンがアフガン人の国であるように日本も日本人の国だ。近頃日本が右傾化しているなどという見方もあるけれど、それでも日本人の日本への帰属意識は不思議で、一億人を超える人々の選民意識と健康志向が日本という土地への執着に結びついてはいない。土地というのは本来なら国家以上に、また思想すら超えて人々を吸着させる性質を持っている。この前読んだ亀山郁夫とアンドレイクルコフとの対談でクルコフはウクライナ人は一人一人が自分のウクライナを個別にもっており、ロシア人は母なるロシアを共有して持っている。そして彼らは同じ土地に住んでいる。

 日本に関していえば日本は一人一人が自分の日本を持っているわけでも、また共通した大日本を持っているわけでもなくなった。天皇陛下の権威は以前とは全く変わった象徴となっている。いまは誰もが予備知識なく右翼なり左翼なりネットで簡単になれる時代なのかもしれないが、左右ともに日本は病んでいるという共通認識をもっているようには思う。一千年を超える歴史のためにかえって人々は日本という国も永遠ではないことを認識できない。日本は死を直視することができない。死を見据えない健康志向は単なる悪あがきでしかない。僕は具体的なことを何一つ言わないけど死を常に意識することは何も悪いことじゃない。死を恐れろということではなく死なざるをえないならなんだってできるのだから。

P.S. 死を忘れるなという意味の言葉、メメントモリを題にした原田宗典の作品が最近あったが、ほんとうにびっくりするほど論外な小説で誰にも読まれることを意識していないように感じたし、あれほど世相に逆行したものもないように思えた。
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