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新潮新人賞が発表された。去年までは比較的古めの作品ばかり読んできたから前回群像新人文学賞のときのように本当にデビューしたてな新人賞作品を読むのは今年がはじめてのことだ。

この小説は僕が今年になって文芸誌を読み始めて感じた、いまの文壇の風潮とおぼしきテーマをすべて内包してきたように読めた。
いじめ、介護、血を越えたつながり、祈り。

吉田という寝たきりである老人。彼は主人公衿子にとって母の最後の男であり、彼女は吉田の卒中を契機に蒸発した母の代わりに血の繋がらない彼を介護している。吉田の捨てた家族から金をもらいながら生活している彼女は中卒で自分になんの自信もない。吉田の息子である建夫の娘緋鞠はたまたま知った自分の父方の親、というよりその親を介護する衿子に興味をもち夏休みにひとつき泊まらせてもらうことなった。緋鞠は父が官能小説家であることを理由に高校でいじめられており、優しくしてくれた男子とはじめてのセックスにおよぶもその後連絡がとれなくなりもしかしたらそれもいじめの一貫だったかもしれないと思っていた。彼女は祖父などまったく気にせず衿子を巻き込んで、祈りと称していじめたクラスメイトたちの写真を切り取って人型をつくり燃やしていく。その呪いのような祈りを通して衿子と緋鞠の距離は縮まりお互いの秘密をうちあけあっていく。そのなかで衿子は母の最愛の男だった祖父江さんという少し抜けた男性を自身の呪いによって殺したかもしれないことと、彼と行った唯一の外出先である恐竜展の話をする。その恐竜展と緋鞠が処女を失った公園で二人は祈り、その後すったもんだで吉田が死に、彼に呪縛されていた衿子および吉田の家族全員が開放されて物語は終わる。

技術面でみると三人称のナレーターは緋鞠と衿子という二つの軸を入れ替わり、二人の年齢差に合わせて描写の差異を見せている。いじめがはじまる直前に緋鞠が友人に嫌悪を告白されるところはよくわからなかったが、いじめに耐えるタイプの人間の心理的緊張はうまく描かれているし、また介護の描写は実際に経験があったのではないかと思わせるほどよく出来ていた。会話分はおそらく故意だと思われるがドラマや映画的描写をおもわせるある種クリシェのようでそれが物語の最後をできすぎハッピーエンドのように見せてしまっているきらいもあった。読後のインタビューで二ヶ月で書ききったと著者は答えていたがもう少し磨き上げられるポイントは多かったようにも思われた。

ぼくは英国国教会系の高校を出たくせに個人的に人生のなかで何かを祈ったことがない。祈りの感覚というものがよくわからない。おそらくそれは自分にはどうしようもない規模の事物をどうにかしたい思いを叶えるために、自分の矮小さを認め、自分の全存在を神や運命などの超越的なものに委ねることでその見返りを求める行為だろう。祈りと呪いの差は超越的なものに対して幸を望むか不幸を望むかの違いでしかない。序盤で緋鞠が行う人型はどうみても呪いだ。しかし本質を偽って祈りと呼んでいるのでは、それは形式だけの祈りであり、そんなものが意味をなさないように、形式だけの呪いも意味をなさず、緋鞠は結局より実践的な行為にでてしまう。人を呪わば穴二つ、あるいは因果応報という言葉のとおり、それは衿子の負傷によってやり返されてしまう。
祈りという行為そのものが日本人の本質にそぐわない行為なんじゃないかと僕はひしひしと感じた。それは九年前の祈りを読んだときにも感じたことだ。とくに他者のために祈るときに膝をつきこうべをたれるような祈りには違和しか感じない。自分自身の願いを無条件に叶えてくれる神を八百万のなかから見つけ出そうとする誰でもいいから叶えておくれな姿勢のほうがよっぽど自然だ。あるいは、深沢七郎の傑作「楢山節考」で、自分が山に捨てられにいく日が雪だったらという母をおぶっていった息子が泣く泣く彼女をおいてきた帰路に雪がちらつきだしたのを見てその道を一目散にかけもどり母に「おっかぁ雪だ」と叫びかけるのに母は経を唱え続けたままあっちへいけという素振りをしたような、他者を思いまた他者が思ってくれることがすでに是認されているほうがしっくりくる。そういう意味では僕はわざわざ祈らなくてもただ思い出の地を訪れオムライスなりじゃがりこなりを食べるだけでもよかったように思う。まあ勝手な好みの問題かもしれないけどね。よかったことはよかったし。次はもっと時間をかけた作品を読みたいと思ったし、四十、五十になってからすごくいい作品を書くタイプの人のように思った。
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