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ぼくが雨を好きなのは自分をやっぱり日本人なんだと再確認できるからだ
雨を表現する語彙の多さは多言語の比じゃないと思う

この小説ではいかなるシーンにも雨や水があらわれて主人公さくらの心象に比例してその模様をかえている
大学卒業後コンビニで働いているさくらは雨のなか友人の千紘を嫌悪していた
あらすじを一文で表現するとこうなる
さくらの千紘への嫌悪は強く登場する五つのシーンのうち全てにではないが、彼女が現れると感情の少なかった文体に刺が出る
飛び降りるにはちょうど良さそうなモールの吹き抜けや彼女が諭されて仕方なく付き合った恋人との別れやコンビニでの勤務でさくらはあきらかに閉塞感と被投感で鬱屈して不快でいる
しかし彼女が作中唯一友達として現れる千紘、彼女がモーションキャプチャーの撮影で全存在をひとまえでむき出しにされた屈辱に泣いたあとの帰り道、強かった雨は勢いを弱め、彼女はそのときのことを思い出してスティッキーなムードをどうにかしている。
こういうことはおうおうとしてあることだ
もう一つ僕がこの小説で気に入ったのはパフォーマンスアートを含んでいるところだ
異常な事態にたいして正常なはずの通行人が正常なはずのリアクションで異化されてしまうアートを小説のうちで見るのは特に好きだ

ちなみにぼくはあんまりカタカナ語を使った題が好きじゃない
日本にしかないカタカナなら別として、時代遅れな命名感覚だと思う
この小説もやっかいな気分の意味で使ったのかもしれないけどカタカナ語が頻発するわけでもないむしろひらがなの極端に多いくらいの文体で題だけがカタカナまじりなのが浮いている
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