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「都会の人々は自分がどれだけ都市機構を熟知しスマートにA地点からB地点へと移動できるかをイヤホンをかけながら競いあっている」
 そんな言葉をオープンテラスで紅茶をたしなむ忙しく暇を生きていそうな主婦が言っていた。
 そんな彼女の脇を抜けて美幸は歩道に組まれたレンガを蹴り進んでいた。聞こえてもいない。ニューバランスの奇抜な色合いの靴底が硬い地面を蹴る衝撃をやわらげる軽快な音が美幸のリズムとなっている。濃いネイビーのジャージをまとってジッパーを胸のほんの少し手前まで下げて、その下の白いシャツを見せて、その白さとももいろになってきた肌の間から上記した肌の熱が溢れてくるようだった。
 やっぱ走らなかったらよかった。走りだしてからしばらくするといつも思うことだった。脚の筋肉は固く重くなってくるし腕を振っても痛くなるばっかりで身体はちっとも前にすすまなくなる。恥ずかしいくらいに汗をかくし風にうたれて鼻も赤くなって痛い。開始直後は自分としてはとても格好いいつもりで走りだしてまだすれ違う人々の顔を目を見る余裕があった。トレーニングウェアの女の子ってなかなかかわいいでしょ? どう君も走ってみたら?
「でも人間はどうして走るんだ?」
 そういって後ろから彼女と並走し始めたのは椎葉だった。美幸と同じくジャージをまとっていた。
「じゃあどうして椎葉くんは走るの?」
「自分を磨くのはすけこましの義務だから」そう彼はこともなく即答した。「練習は欠かせない」
「どんな練習するの?」
「鏡で笑顔の練習、さまざまな表情の練習、流し目、キメ顔、エトセトラ。仮想的な女性への近づき方の練習、逃げられない近づき方、逃げられる余裕を持った近づき方、近づかせる近づき方、無理やりな近づき方。トークの練習、主体性を持ち主導権を持ち、相手の資産に依存しつつ相手の心は依存させる理論のブラッシュアップ。そして肉体、男性アイドルを参考に、薄いからだを維持すること」
「真面目だね」
 二人は走る。実のところ三人で走っている。椎葉の後ろに女性が一人走っている。細身ながら180はある背の高くスタイルのいい女性でこの寒い日にタンクトップにショートパンツでいる。しかし三人は決して冬でも暑くてたまらないというようなペースで走れる優秀なランナーではなかった。彼女のむき出しの四肢は痛々しいほどに赤くなっていた。
「彼女大丈夫なの?」
「うん、自分には辛抱強さしかないって言ってたからね」
 その時、三人を路上から抜いていく影があった。自転車に乗った前傾姿勢の集団だった。全身を化学繊維で覆っててかてかしながら走っている。
 だけど抜いたのもつかの間、信号にあたり、前を行く車両は停車、教習車だった。教習官の教え通り巻き込み防止のため左折でなくても左へ幅を寄せた。前へ出られなくなった自転車の集団は足裏をペダルから離したくがないために小刻みに前後にぷるぷるしながら全員ジェスチャーでどけと合図するが、車は気づかないのか意に介さずしまいに一人は「糞が」と言って右から抜こうとした。ギアをパキパキと鳴らして半身を乗り出したとき、けたたましいクラクションが聞こえて大型トラックが過ぎた。あやうく死なずに済んだ男はまるでそれが子供が初めて覚えた言葉のように「糞が、糞が」とくりかえしてながら教習車の前方へ迂回し、車が通らないのをいいことに赤信号の歩道を渡っていくのだった。
「自転車は美しい乗り物だと僕も認める」そう椎葉は言う。
「聞いてないけど?」美幸は言う。
「だけど自転車ってそれ自体でもう完成されすぎてる。それって人間は自転車にとって余計な存在でしかないってことでもあるし、どれだけ鍛えて脚だけを太くしたり八十年代のエアロビウェアみたいなてかてかに服を着ても、気持ちだけのヘルメットをかぶっても、それって却って自転車の美を損なわせてしまってる。人間の肉体は機能美に対してはツールに明らかに劣っているし」
「そうなの」
「だからまるで小さな男が無理をしてロングコートを着るみたいに、機能美と一体化しようと試みるロードレーサーはママチャリに乗ったおばちゃんよりも滑稽でみにくく、哀れで、万能性を信じる人間の象徴みたいに、みんなに笑われてる」
「それなのにみんなは自身満々じゃない?」
「それって自転車は実力がものを言うんじゃんくて金額がものいう世界だから。金を得た人間はものを買う。ものを買えない若者を笑うけど、高級車の静粛な内側で、自分の突き出た腹に劣等感を抱いて嫉妬している。若者に勝ちたい。ついでに健康という肩書も取り戻したい。その時、中年の虚栄心を満たす最高のスポーツとして現れたのが自転車だった。金がかかり、運動しているポーズがとれて、おしゃれな海外の国々で人気。満たされた虚栄心は傲慢さへと変わる。そして速度を持った傲慢さが老婆を轢き殺す」
「椎葉はなんでそんなに嫌いなの中年が」
「だって中年の小金持ちは女たらしにとって最大の敵」
「そうなの」
「あたりまえだろ。中年も女子大生も虚栄心の共依存だし」
「椎葉にはないの?」
「女たらしの虚栄心って依存させることに依存してる」
 三人はパン屋へ入った。カフェもかねた杢目の温かみのあふれる中にコーヒーと小麦粉とイーストとバターの温まった匂いが満ちていた。オープンテラスでは先程の自転車の集団が大声で話し合いながら汗に蒸れた尻と陰部を下着もないうすいタイツ一枚に押し付けて椅子の合成皮と濡れ合っていた。
 三人はコーヒーとともに、トマトソースで風味をつけたツナの入ったクロワッサンを楽しんだ。
「本当に椎葉はろくな死に方しないと思う」
「僕もそう思う。でもやめられない。あの顔をみると」
 二人は振り返った。店内の熱と食事のぬくもりで肌の色の回復した背の高い彼女は三人分の会計を済ませながら、どこか誇らしげな表情をしていた。それを美幸は不思議なものを見る目でつぶやくのだった。
「共依存の虚栄心」
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