上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
小説を読まない人が多くいることはもうまったく仕方のないこと。
読書の楽しさに魅せられたばかりの頃は、同じく読書家を探して
まったくいないことに絶望したりしたが、今はもうそんな考えもない。諦観しちゃったんよ。

それでもいまだに腹がたつのは、小説が不要だと考える人々
彼らは稚拙な言葉で紡がれた新書を読んで、実用的だということに意味を見出している。
しかし実用的というのはなんだっていうのか? 仕事における実用性のことだろうか。
じゃあ実生活上の実用性には目を向けないのかしら?
人格が純粋な知識では得られないのに、それでも純粋な知識だけもとめているのは
自分から進んで社畜になろうとしていることなんじゃないかしら。

小説を実用性で語るのは好きじゃないけど、そう見れば小説を読むというのは物語を知るということ。
一冊に一つの大きな物語の場合もあるし、小さなしかしあなどれない物語がたくさんある場合もある。
物語を知るということは、そのシチュエーションについて考えたということになる。
だからたとえば父親が大事な時期に事故を起こして入院したことに、あなたの友達は参っていたとする。
お酒を交わして彼があなたに辛さを吐露したときに、多くの本を読んで多くの物語を知ったあなたは
引き起こされてしまった深刻な問題に対して、ある程度の余裕を持って微笑んであげることができる。
その微笑みがどれほど彼を楽にさせてあげられるだろうか?
単なる悔やみや気休めの言葉以上の慰めになるはずだ。
だってその微笑みは理解によって彼の精神を優しくハグしてあげるようなものだからだ。

包容力は人に降りかかるさまざまな物語をまず無条件に受け入れる力であって、
これを無意識にできる人間などまずいない。
もし自分に成功のための習慣が足りないと言われたら喜んでそのための本を読む意識の高い人々なら
包容力のためにさまざまな小説を読むことぐらい容易いことのように思う。
むしろ僕にとっては読むのが苦痛なそういった金の匂いしかしない啓発的な本を読み切れる忍耐力をもっているのだから。

読書は趣味ではなくて誰でもすべき当たり前のことであって
就活に一生のすべてをかける人々は趣味の欄に読書と書いてはいけないことを知っているし
後輩に趣味に読書って書くなよって助言できるくせに自分は読まないんだから
ださいから読めって話だ。

僕はおしゃれなカフェで自己啓発本を読む人たちよりまだ東野圭吾を読んでいる方が魅力的だと思う。
東野圭吾から発展してくれればとは思うが。
関連記事
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。