僕はポストモダン文学についてはまだよくわからない。
絶対的な読書量が足りていないと思う。

しかしこの作品は終始面白く読んだ。
最後まで読めば誰でもわかることだけど、これは私小説だ。
私小説の定義もよくわかってはいない。
個人的な経験を盛り込んでそれを広い共感へと導こうとしている小説だろうか。

シュールレアリスムの手法の中で自動筆記というものがある。
頭に思い浮かぶ通りに脈絡なども考えずに描き出す手法だ。
特徴として極端な短絡がありまた過剰な情報を持ちうる。
たとえばロートレアモンの文章をとれば
「発育への傾向と自分たちの有機体が同化する分子の量とが関係のないものになってしまっている成年の女たちにおける胸の発達の停止の法則のように美しい。」といった文章だ。

そして無意識による言葉の連なりこそが人間の本質だと考えたこの主張に対し、現代の、たとえばこの青木淳吾の文章は違う。
情報は氾濫しつつも確実に彼の文章には明らかな取捨選択が存在している。
そのままでは読むのが苦痛になる情報の羅列を饒舌的な文体によって読者にすっと飲み込ませるようにしている。

この小説自体冒頭からシュールレアリスム的手法であることを告白して、ピカソやブラックについての描写があり、印象派たちの描写があったように印象的な情景が時折差し込まれている。
この物語を一枚の絵に例えるならそれは始まりと終わりでシンメトリーを形作っており、先生・中世・地域探索・中世・先生といった構成であり、それらに大いに影響されながら一人称としてほとんど登場しない「私」の思考経路が語られている。

もう一つこの小説で興味深かったのは私小説でありながら語り部は著者と違う性別である女性が行っているところにある。
僕はかねがね私小説にそういうことはあっていいと思っていた。
これが同性愛者にも当てはまるのか、僕にはわかりかねるけども、誰しも異性を愛するなら、自分のなかにも異性を持っていて、そこに立ってみることで、より強く自分を客観視できるのでないかと考えていた。
だからこそ彼の試みに僕は喜んで、あっという間に読んでしまった。
どういう層におすすめの作品かと言われると、万人向けでないだけに難しいが、月並みながら芸術における創作過程に興味がある人にはおすすめだ。
 
気に入った言葉。
自転車に乗る人間の距離感はどうも当てにならない。
小説でも物語でもなく、その小さな紙面をごく私的な内容で埋めるだけで、当時はそれなりに満足していたはずだった。
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