小腹が空いたので、こんがり焼けたレーズントーストにバターを塗って程よく蒸らしたアールグレイを飲みつつ齧っていたら、ふいに固いものを噛んだので驚いて見てみれば5mm足らずなレーズンの枝だった。別にそれだけのことなのにほんのりと嬉しかった。こんな感覚を偶然によって覚えることを時折幸運と呼んだりするが(偶然でなく覚えることを幸福と呼ぶのだろうか?)このように嬉しさを覚えるのはそれが何か現在の事象が好転するかのような予兆と思ってしまうからだろうか。
 僕は運というものを信じない。多くの文学を好む人も信じたがらないように思う。すべての葛藤や事件が運によって解決されてしまえばそれはたとえ話になりえず、すなわち小説でなくなってしまうからだろう。機会仕掛けの神という演劇において人間の間で起きた事件が神によって解決されるという手法があり、それはあまり好ましくない手法だとされているがそれもやはり神による解決=幸運という図式があてはまるからだろう。しかし確率論が偶然的現象に対して数学的モデルを与えることによって運だけで解決されていた事象にも解析の余地をもたらしたように、自身に対して良い効果をもたらす偶然的現象にもそれ以前の何かしら学術的な因果関係があったと考えれば、単なる幸運と片付けられがちなものがしめやかながらも明確な意味を持って……って僕は何を言っているんだろうね、ただレーズンに枝がついていただけなのに。枝からはバターの香りがしたよ。
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