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いじめられるのは常に弱い者だけではないと僕は考えていて、それで思い出したエピソードがある。

僕が中学三年の時。
一年で入って来た女の子で、いわゆるヤクザの娘がいた。いや僕は人づてに聞いただけで実際は知らないしそもそも興味すらなかった。
ただ三年生の女の子たちの間で、調子に乗っている女の子として有名なことは知っていた。登校するときの道が同じだったのでよく見かけてはいた。僕は僕で通学中に音楽を聞きながらコンビニによったりするという格好つけに忙しかったのでさっぱり気にしてもいなかったけど。

彼女が調子に乗っていたという由縁は名前が変わっていたのと髪の毛を染めていたことと言動に歯に衣着せぬものがあったからかもしれない。

そして僕はまったく気づきもしていなかったのだけど、僕のことを確か呼び捨てで呼びかけただか、外人って呼んだのかもう忘れてしまったものの、ある日、同学年の女の子に呼ばれると階段のところで、そのヤクザの娘が所属するバレー部の一同が全学年揃って彼女を僕の前へ突き出して
「呼び捨てにしてごめんなさい」と謝らせたことがあった。
そもそも知覚してもいないことだし名前ぐらいいくらでも呼んで捨ててくれて構わない僕なのでただ驚いて
「え、うん」と曖昧な返事しかできなかった。
その曖昧な返事のせいか、同学年の女子バレー部員たちが一斉に僕をキッと見た。

多分みんな僕のためにやったのに僕がヤクザの娘に怒りもしないしバレー部のみんなに感謝もしなかったからかもしれないけれど、僕はあれ以来いっきに組織というものがいやになってしまった。

いじめは明確に組織として明文化・区別されていない集団のなかで起こる排斥行為だと僕は考える。
明文化・区別されていない集団はすなわち明確な規律を持たない。
明確な規律を持たない集団は個人個人によるその集団への帰属意識によってひとつにまとめられているものの、
帰属意識にはばらつきがあるため、集団は不安定になりやすい。
不安定な集団の帰属者たちは不満、つまりフラストレーションを募らせてゆき、集団としてのまとまりを保つ為にはその不満を発散させる必要がある。
そこで帰属者たちの共通感覚から一番はずれがちな人間を(いくじがない・反骨的すぎる)などと理由をつけて反帰属的な人間の例として儀式的に祭り上げることで集団はフラストレーションを発散させる。

つまりいじめの被害者は常に被害者でありそこに弱さや強さは関係がなく、いじめの問題は常に集団とその統治者、代表者に帰属していると僕は考える。つまりいじめの首謀者、および学校であれば担任や校長といった責任者に問題は存在している。またフラストレーションは常に恒常性を乱すものへ抱かれるものだから、乱されない恒常性は次第に勢いを弱めついには消失するように、集団の恒常性を革新するための「ぶれ」として存続には不可欠な存在であるという理由から、僕はいじめはいじめられる側が悪いという理論に反対する。
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